「満州」とは国名では無く民族名である。
満州には「ジュルチン」という民族が住んでいて漢字で「女真」「女直」と書く。
ジュルチン族は仏教をを信仰し「マンジュ菩薩」を尊崇していたので、「ジュルチン」を「マンジュ」と変え これに「満住」「満州」という漢字を当てた。
結果、「満州」は「ジュルチン族」の新しい民族名になった。

満州族が作った満州国は支那の領土では無かった。
大東亜戦争以前には支那が満州の領土になった事は有るが、満州が支那の領土になった事は無い。
支那(漢民族)にとって万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であり、古来「天下」というのは万里の長城以南であった。

明治35年に日英同盟が締結されたが、この同盟の目的はロシアの南進を防ぐ為だった。
三国干渉以後、ロシアは極東侵略政策をしており、これに対抗する為に日本では伊藤博文が唱えるロシアと妥協して侵略政策を緩和させようとする案と、小村寿太郎らのイギリスと同盟を結びロシアの南進を防ぐ案が有ったが後者を選択した。

義和団事変後、満州を占領したロシアは、義和団鎮定後も満州に居座り続けたので、日本とロシアの間で日露談判が行われた。
日本は、「韓国に於ける権益は日本、満州に於ける権益はロシア。これが日露が相互に認める」と提示したが、ロシアは「満州は交渉の対象外とし韓国は北緯39度以北を中立地帯とする」と反発した為、日本は「満州を日本の権益の対象外とするなら韓国はロシアの権益対象外とすべきであり、中立点は満州と韓国の境界の両側50キロとすべき」とロシア側に伝えたが3週間経ってもロシア側から返答が無かった為、日本は国交断絶をロシアに対して通告した。

日露戦争に於いて、日本は当時の金額で150万円、ロシアは200万ルーブルを戦場使用代として当時の清国に支払っている。
つまり、清国は満州で日露が戦った事に対して国際法上主権侵害とは言えない。
日本はロシアを満州から排除した。
もし、日本がロシアに負けていたなら満州はロシアの領土になってたであろう。

19世紀欧州諸国がアジア諸国に勢力を延ばし植民地政策を行い搾取や虐待し続けていたのが支那までに及んでいたが、アメリカが支那大陸にその勢力を延ばそうと企てた時には既に清国は欧州諸国による分割を終えていた。
そこでアメリカは門戸解放・機会均等を唱え清国に於ける諸権益の分け前に与ろうと企んだ。
日露戦争で日本が勝利するとアメリカは日本をライバル視し日本の力を殺ごうとした。
そして、大正10年「ワシントン会議」が行われた。
ワシントン会議では海軍の軍縮条約が締結され日本の太平洋進出を抑えられたが、重要なのは日英相互が継続を望んでいた日英同盟がアメリカとカナダの強い反対により解消されたことと、9カ国条約でアメリカの主張する門戸解放・機会均等が欧州列強の支持で成分化されたことである。

張学良政権は当時3000万人といわれた満州の民衆の支持を得て無かった。
張作霖・張学良時代の満州は悪政が続き、国家予算の85%が軍事費で税金は数年先分まで前払いさせられていた。

そもそも、満州は清国の領土であったが、支那の領土では無かったのは先に書いた通りである。
辛亥革命で支那人(漢民族)が清朝を倒し独立したのだから、清朝を建てた満州人は満州へ帰れば良い。
又、清朝に征服されていた蒙古民族、チベット民族、ウィグル族、苗族も同様に独立すれば良い。
日本はロシアの南進を阻止する為に日露戦争を戦い、満州にてインフラを整備し近代産業を移植し治安を維持し支那の内乱が及ばない様にした。
その結果、内乱に明け暮れる支那から安定した満州へ大量の漢民族が流入してきた。
1904年の日露戦争の頃は1000万人、1911年の辛亥革命の頃には1800万人であった人口は満州事変の頃には3000万人に達した。

当時の諸外国の状況はというと、蒋介石の国民党は、国内統一を優先し共産党掃討戦に没頭していた為、張学良の応援には1兵も送らなかった。
ソ連は中立不感症を表明、イギリス、フランス等は日本の行動を黙認しておりイギリス等は支那の中央部の大きな権益が保証されるのなら日本の満州統治を認めても良いという立場だった。
唯一反対だったのが日本をライバル視していたアメリカだったが、不況対策で忙しく単独で日本に干渉する事が出来なかった。

1932年2月、満州人、支那人、蒙古人からなる「東北行政委員会」は満州の独立を宣言し溥儀を元首とした。
同年3月1日に満州国政府は建国を宣言し同月9日には溥儀が執政に就任した。
日本は同年9月にこれを承認した。
満州国は18カ国から承認されている。
独立は満州人の自発的運動であり、それは張学良軍閥に反発する満州文民派の総意であった。
だからこそ、1万数千人の関東軍がその数十倍といわれる張学良軍を満州から追い出す事が出来たのである。

溥儀の家庭教師であったジョンストンの「紫禁城の黄昏」という著書には、溥儀自身が支那から独立し建国するのを望み日本を利用し満州国建国を目指していたことが明記されている。
(「紫禁城の黄昏」は平成17年に祥伝社から完璧版が出版されそこにもこれが明記されている。しかし、岩波文庫の翻訳書にはこの点が書かれた箇所が意図的に削除されている。)

日本はリットン報告書を不服とし国際連盟を脱退したが、国際連盟はアメリカが提唱して作られたがアメリカも加盟しておらずドイツやソ連の大国も加盟してなかった。
国際連盟自身かなりの骨抜きの組織であった。