今は昔の話である。


「かたわれA」は「かたわれa」を心底好きでいた。いつの間にか真の好きを会得した。それはそれは1000年以上かかったかもしれない。


対する「かたわれa」はいつの間にやら決心した。言葉に言い表せない決心である。世の中を良くしたいとか、存在とは何かとか、世界一になりたいとか、そういうことではない何かであった。


それを達成するのは世界でたった1人と決まっている。当然、終始2人で団結して成功させるというのは不可能である。ゆえに「かたわれa」は「かたわれA」が非常に邪魔であった。


ここからが悲劇であった。「かたわれa」はあの手この手を使い何百年かけて世の中を渡り歩いた。まさしく人とのふれあいの連続である。瞬く間に「かたわれA」を放置した。


一方「かたわれA」は「かたわれa」に触れたくても触れられない。皮肉にも「かたわれA」は誠の好きを会得したばかりに後戻りできず苦悩して人生を終える連続だった。


幸せになれない。かといって時間を空費できない。この不変の悩みの解決策は自分に嘘をつくことであった。そして悪あがきすることであった。


真っ直ぐに好きだからこそ、不可能を悟れば道を外す以外に選択肢はなかった。理性に蓋をするのは簡単だった。魔性の始まりである。


一度、好きを知ってしまった人が理屈に合わない事をするのは苦痛で仕方ない。でも物理的にそれが出来ないとなると屁理屈で生きるしかないのである。


病気であるとか、性格が悪いだとか、今を生きる我々にとって「かたわれA」なような存在はいろんな太鼓判を押すことができる。


しかし「かたわれA」には本人にしか分解できない苦悩を持ち、「かたわれa」は立ち止まらず進化し続けるしかないのである。


実に悲劇的なツインである。これを読んだあなたはどちらに当てはまるだろうか。


そして巷にあふれるスピリチュアル論を正しく理解することができているだろうか。