君が代は。
ちよにやちよに。
さざれいしの。
巌となりて。
苔のむすまで。

今日は日本の大祭日、昭和天皇祭です。

昭和天皇崩御の日にして今上天皇陛下親しく皇霊殿に出御、ご祭典を行わせられ、また武蔵野の御陵には勅使を差し遣わされます。

昭和天皇御諱を裕仁と申し奉り、大正天皇の第一皇子にましまし、明治34年(皇紀2561・西暦1901)4月29日ご降誕あらせられ、大正15年(皇紀2586・西暦1926)12月25日ご践祚、昭和3年(皇紀2588・西暦1928)11月10日ご即位あらせられます。

昭和20年(皇紀2605・西暦1945)に迎えた滅亡的敗戦以来、奇跡的な戦後復興を経て高度成長へ、「世界第二位の経済大国における一億総中流社会の実現と現代文化の発達」など、わが国運は日に月に盛んとなり、国威は隆々として世界に輝く折から、思いがけなくも、天皇は、昭和62年(皇紀2647・西暦1987)9月、御病におかかりになり、宮内庁病院にご入院、手術をお受けになりました。

「神聖なる畏き玉体にメスを入れ奉る」ということは、神武肇国有史以来初めてのことです。

国民の驚きはいかばかりか、上下こぞって、ひたすら御平癒をお祈り申し上げました。

ご退院後は、ご公務の一部がおできになるまでにご快復になりましたが、翌63年(皇紀2648・西暦1988)9月、再びご体調に異常をきたされ、ひたすらご療養にお努めになりました。

御病状を案じ奉って、二重橋のほとりに集まる者は、日に増え続け、夜を通して祈り続ける人々も、少なくありませんでした。

ところが、御病は日ごとに重らせられ、ついに昭和64年(皇紀2649・西暦1989)1月7日午前6時33分、御年87歳で、御隠れになりました。

国民の悲しみは、たとえようもなく、世界の国々もまた、御高徳をたたえ奉り、謹んで崩御をお悼み申し上げました。


   ◇

畏くも 昭和天皇は、御年16歳の時、皇太子にお立ちになり、やがて内外多事の折に、大正10年(皇紀2581・西暦1921)11月25日、大正天皇御病のため、皇室典範の定めにより、摂政の任に、お就きになり御重任をお果たしになって、大正15年12月25日、大正天皇が御隠れになると、ただちに践祚あらせられ、年号を昭和と改め、次いで文武百官を召して、朝見の儀を行わせられました。

やがて昭和2年(皇紀2587・西暦1927)2月、大正天皇の大葬の御儀があり、多摩陵(たまのみささぎ)に納め奉りました。

諒闇が明けて昭和3年(皇紀2588・西暦1928)11月10日、即位の礼を、京都の 皇宮でお挙げになりました。

まず、賢所大前の御儀があって、皇祖天照大神に、即位の由をお告げになり、ついで、紫宸殿の高御座にお登りになって、広く天下に、これをお宣べになりました。

この時、国民は、一斉に万歳を唱えて、宝祚(あまつひつぎ)の御栄えをお祝い申し上げました。

天皇は、次いで大嘗祭を行わせられ、天照大神を始め天地の神々に、親しく神饌を供えて、夜もすがらお祭りになり、限りなく尊い御盛儀は、かくてめでたく終わりました。

昭和の御代が隆々と開けて万機をお統べになること、まさに64年に及びました。

その間、大日本帝国という世界的な大帝国の繁栄の先に待っていた大東亜戦争へ道、そして迎えた敗戦、そして戦後の大業をお遂げになり、新政を整えて国力を充実あらせられ、皇威を世界にのべて、国際社会の礎をお築きになりました。

まことに、昭和の御代における国運の進展は、明治、大正の御代とともに東西古今の歴史に、その例を見ないところです。

昭和天皇は、皇祖皇宗の御遺訓に基づき、常に御みずから手本をお示しになって、ふみ迷う国民をお導きになりました。

また、明け暮れ、万民のことに大御心をかけさせられ、数々の御恵みを賜わりましたが、その御心を、


あらたまの 年をむかへて いやますは 民をあはれむ こころなりけり

山山の 色はあらたに みゆれども わがまつりごと いかにかあるらむ

あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

みゆきふる 畑の麦生に おりたちて いそしむ民を おもひこそやれ

戦の わざはひうけし 国民を おもふこころに いでたちてきぬ
 
わざはひを わすれてわれを 出むかふる 民の心をうれしとぞ思ふ
 
海の外の 陸に小島に のこる民の うへ安かれと ただいのるなり
外国と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

爆撃に 倒れゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも
 
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
 
国がらを ただまもらんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり

戦に やぶれしあとの いまもなほ 民のよりきて ここに草とる
 
をちこちの 民のまゐきて うれしくぞ 宮居のうちに けふもまたあふ

ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ

国をおこす もとゐとみえて なりはひに いそしむ民の 姿たのもし

あつさつよき 磐城の里の 炭山に はたらく人を ををしとぞ見し

浅間おろし つよき麓に かへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか

ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えて うれしかりけり
 
霜ふりて 月の光も寒き夜は いぶせき家に すむ人をおもふ

冬枯の さびしき庭の 松ひと木 色かへぬをぞ かがみとはせむ
 
潮風の あらきにたふる 浜松の ををしきさまに ならへ人々
 
わが国の 紙見てぞおもふ 寒き日に いそしむ人の からきつとめを

風さむき 霜夜の月を 見てぞ思ふ かへらぬ人の いかにあるかと

庭のおもに つもる雪みて さむからむ 人をいとども おもふけさかな
 
海の底の つらきにたへて 炭ほると いそしむ人ぞ たふとかりけり

かくのごと 荒野が原に 鋤をとる 引揚びとを われはわすれじ
 
外国に つらさしのびて 帰りこし 人をむかへむ まごころをもて
 
国民と ともにこころを いためつつ 帰りこぬ人を ただ待ちに待つ

もえいづる 春の若草 よろこびの いろをたたへて 子らのつむみゆ
 
日の丸を かかげて歌ふ 若人の こゑたのもしく ひびきわたれる

国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

荒れし国の 人らも今は たのもしく たちなほらむと いそしみてをり

おほきなる めぐみによりて わび人も たのしくあれと われ祈るなり

なりはひに はげむ人人 ををしかり 暑さ寒さに 堪へしのびつつ

新米を 神にささぐる 今日の日に 深くもおもふ 田子のいたつき

この子らを はぐくむ人の いたつきを 思ひてしのぶ 十とせのむかし

さちうすき 人の杖とも なりにける いたつきを思ふ けふのこの日に

ここのそぢ へたる宮居の 神がみの 国にささげし いさををぞおもふ
 
国のため 命ささげし 人々の ことを思へば 胸せまりくる

さしのぼる 朝日の光 へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる

あれはてし 長崎も今は たちなほり 市の人びとに よろこびの見ゆ

年あまた へにけるけふも のこされし うから思へば むねせまりくる
 
年あまた へにけるけふも 国のため 手きずおひたる ますらをを思ふ
 
国のため たふれし人の 魂をしも つねなぐさめよ あかるく生きて
 
大いなる 禍のしらせに かかること ふたたびなかれと ただ祈るなり

日日の このわがゆく道を 正さむと かくれたる人の 声をもとむる

国民の さちあれかしと いのる朝 宮居の屋根に 鳩はとまれり

新しく 宮居成りたり 人びとの よろこぶ声の とよもしきこゆ

樺太に 命をすてし たをやめの こころを思へば むねせまりくる

あらたまの 年をむかへて 人びとの こゑにぎはしき 新宮の庭
 
国のため いのちささげし 人々を まつれる宮は ももとせへたり

七十の 祝ひをうけて かへりみれば ただおもはゆく 思ほゆるのみ
 
ななそぢの 迎へたりける この朝も 祈るはただに 国のたひらぎ
 
よろこびも かなしみも民と 共にして 年はすぎゆき いまはななそぢ
 
氷る広場 すべる子どもらの とばしたる 風船はゆく そらのはるかに

あまたの牛 のびのびと遊ぶ 牧原に はたらく人の いたつき思ふ

喜びも 悲しみも皆 国民と ともに過しきぬ この五十年

五月晴 内外の宮に いのりけり 人びとのさちと 世のたひらぎを

思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを
 
やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど


とお詠みになっていらっしゃいます。

【御製参照・出典】
『坊城俊民著『おほみうた 今上陛下二二一首』(1986・桜楓社)』▽『田所泉著『昭和天皇の和歌』(1997・創樹社)』


我々国民は、ただ有難さに、涙がこぼれるばかりです。

昭和天皇が御隠れになると、ただちに第125代 太上天皇が、御位をお継ぎになり、年号を平成とお改めになりました。

この年の2月24日、新宿御苑において大葬の御儀があり、武蔵野御陵(むさしののみささぎ)に納めまいらせました。

国民は、永く御高徳を仰いで、現在も1月7日に限らず御陵にお参りする者が、常に絶えません。

長らく「みどりの日」とされてきた、昭和天皇のお生まれになった4月29日を、心ある人々の念願がようやく叶って昭和の日(昭和節)と定められました。

国を挙げて、この日をお祝い申し上げ、永久に、大御業をお偲び申し上げるのです。


     ◇

昭和の聖代は本当に特別な大御代です。

日本人のみならず、その世界史的意義を考えれば、広く人類にとっても極めて重要な時代であったといえるでしょう。

明治、大正の聖代を受け継ぎ、その両御代を通じて実現された世界的な大帝国として繁栄を極めた大日本帝国の時代から昭和は始まります。

大正ロマンは昭和モダンへと洗練化され、昭和の芸術・科学・技術・芸能・大衆娯楽は華やかに栄え、文化の発達と文明の進歩を謳歌していました。

その一方で、欧米列強によるアジア市場における国際的権益を巡る熾烈な競争と対峙し、また明治の聖代より日本に内在していた反日本的勢力との対決という混沌とした現実と向き合う過酷な時代でもありました。

明治の聖代においてマルクス主義を信奉してきた反日本的勢力は、大正の聖代において自らの求める理想の共産主義を“ロシア革命”に見出し「日本におけるロシア革命の再現」を夢見るマルクス・レーニン主義勢力として日本各地・各分野に触手を伸ばし尽くしていました。

そのような中でようやく胎動したのが国体明徴運動です。

本来であれば明治の聖代において起こるべきものでした。

もう「時すでに遅し」といった感がありますが、ようやく国家意思の公式表明を以て「日本とは何だ」「日本人とは何だ」という本格的な自己証明に取り組み始めたのが昭和の聖代でした。


     ◇

昭和15年(皇紀2600・西暦1940)には、紀元2600年を迎え、盛大な式典が挙行され、万古不易の国体への想いを世界の人々と一緒に、歴史という悠久の時間に支えられたロマンの感動を共有できたのも昭和の聖代でした。

その麗しい太古悠久のロマンの感動からわずか1年ほどで始まった歴史的運命の大東亜戦争。

そして迎えた滅亡的敗戦。

日本は有史以来初めて敗戦によって外国に占領されるという未体験の歴史を迎えることになります。

昭和天皇には、ダグラス・マッカーサーへ御身を差し出され、すべての責任を背負われるとの聖旨をお示しになられたことは有名ですが、もうひとつ私たち日本人が知っておかなくてはならないお話があります。

敗戦後の日本が直面した大きな問題のひとつは、深刻な食糧難です。

国民の窮状に宸襟を悩まされた昭和天皇には


「皇室の御物の中には国際的価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡し、食糧に代えて国民の飢餓を1日でもしのぐようにしたい」
 

と思し召され、御物目録をつくらせられました。

これを知って感激したマッカーサーは、「御物を取り上げてその代償として食糧を提供するなど自分とアメリカ合衆国の面目にかけてもできない」として、アメリカ本国に食糧緊急援助を要請し、これが実って日本の食糧危機は大幅に緩和されたということがあります。

敗戦を迎え荒廃した国にただ生き残った当時の日本国民の絶望と失望は想像を絶するものです。

亡国的貧困はまさに世も末といわれるほどに深刻なものでした。

打ちひしがれた国民を励ましたいとの強いご聖慮により全国巡幸が叶います。

そこでのエピソードだけでも叙事詩が完成するほどの感動的なお話が山ほどあるのです。

全国巡幸によって生きる希望と明日への使命感を取り戻した日本国民は、崩壊寸前となった国を立て直し「在りし日の日常」を取り戻すというあまりにも切ない願いを込めて戦後復興への道を歩んでいきます。

そして間もなく迎えた高度経済成長という神がかりともいえる大躍進。

敗戦による貧国から世界第二位の経済大国へ、そして一億総中流社会の実現という奇跡を成し遂げていったのも昭和の聖代でした。


     ◇

日本がそのような切ない復興から輝かしい繁栄を謳歌し始めた頃、昭和天皇、香淳皇后には昭和50年(皇紀2635・西暦1975)アメリカを行幸啓遊ばされました。

日米首脳会談のニュースでも一面に出たことはまずなかった「ニューヨーク・タイムズ」ですら行幸啓は6日間トップ記事で、それも御真影入りで掲載されたのです。

両陛下には米国に着御され、アメリカ人が陛下を目の当たりにするようになってから、全米で日を追って訪米歓迎の空気が盛り上がっているのです。


アメリカ国民が、心から感動し、昭和天皇を尊敬するきっかけとなったのは、ホワイトハウスでの公式歓迎晩餐会にて優渥なる勅語を賜わったからでした。

昭和天皇は戦後、アメリカが日本に差し伸べた援助に対して心から感謝なさるのです。


私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことがかなえられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます。


     ◇

米国行幸啓当時、その半年前にかのベトナム戦争の敗北を経験したアメリカ人は国際政治や外交にすっかり自信をなくしていました。

第二次世界大戦後、アメリカは西欧や日本、そしてアジアに多くの援助を行ってきてもいます。

ところが中には感謝の言葉どころか、反米運動さえ起こっている国もあったといいます。


そのような時期に行幸され、今までの援助に感謝を表明され、しかも「日本国民の間に永く語り継がれていく」と仰せられたことは、アメリカ国民にとって大きな救いと計り知れない喜びをもたらせたといいます。

昭和天皇の大御心が、落ち込んだアメリカ人を感動させたのです。

この米国行幸啓までのアメリカ国民の反応は、全くの「冷淡」「無関心」というものが多かったようです。

行幸啓が30日以内に迫っても、アメリカのジャーナリズムでは行幸啓はほとんど話題にならず、まして、一般のアメリカ人は行幸啓をほとんど知らず、関心も持っていなかったようです。

当時、アメリカ国民の日本に対する関心は経済面に集中しており、それ以外のことにはほとんど関心がなく、知らなかったといいます。

ところが、米国行幸啓されてからその様相は一変するのです。


このあたりのアメリカ国民の反応についてですが、歴史学者の美和信夫氏も「天皇研究」(広池学園出版部刊)の中で詳しく述べていますので、皆さまも機会があればお手にとってみてください。

     ◇

玉音放送として知られる「大東亜戦争終結ノ詔書」は有名ですが、実は昭和21年(皇紀2606・西暦1946)5月24日にラジオを通じさせられて「食糧問題に関するお言葉」という優渥なる勅語を賜りました。

ここに謹んで「食糧問題に関するお言葉」を奉戴致します。


**食糧問題に関するお言葉【昭和21年5月24日】

祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたゝかひ、困苦に堪へ、食糧の増産と供出につとめ、その努力はまことにめざましいものであつたが、それにもかゝはらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例を見ないほど窮迫し、その状況はふかく心をいたましめるものがある。これに対して、政府として、直ちに適切な施策を行ふべきことは言ふまでもないのであるが、全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひに助けあつて、この窮況をきりぬけなければならない。戦争による諸種の痛手の恢復しない国民にこれを求めるのは、まことに忍びないところであるが、これをきりぬけなければ、終戦以来全国民のつゞけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に寄与したいといふ、我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成も、これを望むことができない。この際にあたつて、国民が家族国家のうるはしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。


バブル崩壊後の慢性的なデフレ不況に新型コロナウイルス感染症(武漢肺炎)が加わり、そこからやがて常態的な物価高が追い打ちをかけ、今年の元日には「令和6年能登半島地震」の発災という揺れる新年を迎え、まさに「失われたお正月」からの新春より、令和6年は始まりました。

まるで大戦末期の昭和20年のお正月、あるいは滅亡的な敗戦を迎えた戦後最初の昭和21年のお正月を迎えたかのようです。

昨年の今日、皆さまにお伝えししましたが、「全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひ(互い)に助けあつて、この窮況をきりぬけ」「国民が家族国家のうるはしい(麗しい)伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち(打ち勝ち)、祖国再建の道をふみ進む」ことへ大御心をお寄せになられた 昭和天皇の大御言は、時を越えて令和の御代のこの非常時に生きる私たちにも仰せであるかのように思えてなりません。


     ◇

昭和の聖代ほど激動の御代はなく、また 昭和天皇のご聖徳についてのお話は尽きることがありません。

世界的な大帝国から滅亡的敗戦へ
絶望的な戦後復興から経済大国の一億総中流社会へ

その文化・経済・社会の繁栄と発展は、人類史にとっても特筆すべきものです。

昭和天皇には戦前・戦中・戦後と全く変わらずご君臨くださり、その大御心は常に民心の安定と活力の源となっていました。


私たち「日本学会」は、明治・大正・昭和の御代を「三大聖代」「近現代における延喜天暦の治」として特別に重んじています。

そして現代と未来に生きる日本人にとっては「永遠の聖代」であるとしています。

戦前・戦中の文化や表現は日本人にとって大切なエッセンスあるいはエレメントです。

昭和は本当に特別で大切な大御代であり、令和の聖代においても重要なキーワードであることに間違いはありません。

明治、大正の聖代に続く昭和の思想、昭和の文化、昭和の風俗、昭和の習慣といった、昭和の聖代を彩った日本社会全体の精神的様相は、未来へ向かって生きていく私たち日本人にとってものすごく大切な文化価値といえます。

明治文化、大正文化と同じく戦前・戦中・戦後を通じて花開いた昭和文化を、この令和の御代において創造的継承と発展、現代的展開と復興に取り組んでいくべきであると考えます。


     ◇

今年も畏きご聖徳を物語る有名なお話をご紹介致します。

御隠れになられる少し前のことです。

連日雨が続いているのを憂えられた 昭和天皇には、このように御下問なさったといいます。


「お米は大丈夫か」


重く苦しいご闘病の日々が続き、御隠れになられる直前にもかかわらず、御身のことよりも五穀豊穣を願われ、何よりも国民のことを最後の最後までご心配なさっておられたのです。

この民草の上に垂れさせ給いし大いなる御仁慈にはただただ恐懼感激のほかありません。

こうしたご聖徳のお話に触れるたび、胸があつくなり涙が出てきます。


     ◇

私たち日本の国民は、天皇を現御神と仰ぎ奉るとともに、また 皇室を宗家として戴いているのです。

天皇陛下は、この 皇室の御家長で、皇族はその御家族でいらっしゃいます。

わが大日本は万世一系の 天皇を戴く国でありますから、御稜威のいよいよ高く、

皇室のいよいよお栄えになることは、やがてわが大日本の永久に栄え行くことを示して、私たち国民のこの上もない幸せです。

     ◇

今日は 昭和天皇のご命日。

昭和天皇のご聖徳にみんなで心を寄せ合い、「日本人の心」と「昭和の想い」を深める一日を過ごしましょう。


最後に、畏くも 明治天皇の「」というお題の御製(明治11年以前)を謹んで奉戴致します。


人もわれも 道を守りて かはらずば この敷島の 国はうごかじ
口語訳:国民も私も日本古来の道を守って変わることがなければ、この大和の国は決してゆらぐことはなく、栄えていくことだ。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



   ◇

上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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