君が代は。
ちよにやちよに。
さざれいしの。
巌となりて。
苔のむすまで。

天皇陛下の万歳をお祈り申し上げ奉ります。
皇后陛下の万歳をお祈り申し上げ奉ります。

今日は元始祭です。

明治5年(皇紀2532・西暦1872)に初めて行われ、以後恒例の大祭日となりました。

畏くも 天皇陛下親しく賢所、皇霊殿、神殿に出御、天神地祇、皇祖皇宗の御霊を祭らせ給い、天津日嗣の高御座に即かせられし本始を尊み祝して、皇祖皇宗のご恩沢に報い国家の隆昌、国民の慶福を祈らせ給うご祭典です。


初等科修身の教科書の中ではこう教えています。
※振り仮名を括弧付きで表記しているのは私の手によるもので、原点では当該箇所の文字横に併記されています。

 新年の祝日にはさまれて、一月三日の元始(げんし)祭があります。年の始めにあたって、天皇陛下が、神々をおまつりになる日であります。
『初等科修身 二『十六 新年から春へ』(四年生用)』より抜粋

     ◇

明治3年(皇紀2530・西暦1870)の「1月3日」には、宣教使ヲ置クノ詔(宣布大教詔=たいきょうをせんぷするのみことのり)と神霊ヲ鎮祭スルノ詔(鎮祭詔)が渙発されました。

宣布大教というのは、祭政一致の理念に基づき、政治と教化を明確にして「惟神の大道」(神道)を国民に宣布することを意味します。

大詔奉戴、承詔必謹の真心を込め、ここに宣教使ヲ置クノ詔神霊ヲ鎮祭スルノ詔を謹んで奉戴致します。


**宣教使ヲ置クノ詔【明治3年1月3日】

朕恭惟天神天祖立極垂統列皇相承継之述之祭政一致億兆同心治教明于上風俗美于下而中世以降時有汚隆道有顕晦治教之不洽也久矣今也天運循環百度維新宜明治教以宣揚惟神大道也因新命宣教使以布教天下汝群臣衆庶其体斯旨


**神霊ヲ鎮祭スルノ詔【明治3年1月3日】

朕恭惟大祖創業崇敬神明愛撫蒼生祭政一致所由来遠矣朕以寡弱夙承聖緒日怵愓懼天職之或虧乃祇鎮祭天神地祇八神曁列皇神霊于神祇官以申孝敬庶幾使億兆有所矜式


私たち「日本学会」のベーシックのひとつである「国体の本義」(文部省思想局・昭和12年3月30日発行)の中から「祭祀」に関して解説された箇所の一部を抜粋してご紹介します。

昔の雰囲気を感じていただくために、言葉遣いをそのままにお送りします。

難しい言葉遣いが並んでおり、大変お辛いとは思いますが、最後までお目を通していただければ幸いです。
※改行は私の手によるものです。

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**国体の本義【第二 国史に於ける国体の顕現】から【四、祭祀と道徳より】

明治天皇の御製に、

神風の伊勢の宮居の事をまづ今年も物の始にぞきく

と仰せられてあるのは、我が政始の御儀を御歌ひになつたのであつて、この御儀には、総理大臣が、先づ前年中、神宮の祭祀の滞りなく奉仕せられた旨を奏上する。
こゝに、我が国政治の最も重要なものとして、祭祀をみそなはせ給ふ大御心を拝することが出来る。
大日本史の神紙志に、
 夫れ祭祀は政教の本づく所。敬神尊祖、孝敬の義天下に達す。
 凡百の制度も亦是に由つて立つ。
とあるのは、祭祀と政治と教育とが根源に於て一致する我が国の特色をよく明らかにしてゐる。
我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である。
天皇は、神をまつり給ふことによつて天ッ神と御一体となり、弥々現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。
されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。
明治二年、神祇官内に神殿を建てて、天神地祇・御歴代皇霊を奉祭せられ、同三年、天皇は鎮祭の詔を渙発し給うて、

朕恭しく惟みるに 大祖業を創め 神明を崇敬し蒼生を愛撫す。祭政一致由来する所遠し矣。朕寡弱を以て夙に 聖緒を承け、日夜怵愓、天職の或は虧くることを懼る。乃ち祇に 天神地祇 八神曁び 列皇神霊を神祇官に鎮守して、以て孝敬を申ぶ。庶幾くは、億兆をして矜式するところあらしめむ。

と仰せられた。
臣民は、この大和心を承け奉つて、同じく祭祀を以て我が肇国の精神を奉体し、私を捨てて天皇の御安泰を祈り奉り、又国家に報ずる精神を磨くのである。
かくの如く天皇の神に奉仕せられることと臣民の敬神とは、いづれもその源を同じうし、天皇は祭祀によつて弥々君徳を篤くし給ひ、臣民は敬神によつて弥々その分を竭くすの覚悟を堅くする。

我が国の神社は、古来祭祀の精神及びその儀式の中心となつて来た。
神社は惟神の道の表現であつて、神に奉斎し、報本反始の誠を致すところである。
御鏡に関する神勅は、神宮並びに賢所の奉斎の由つて来る本であり、神社存立の根本義は、日本書紀の皇孫降臨の条に於ける天ッ神籬及び天ッ磐境に関する神勅にある。
即ち高皇産霊ノ神が、天ノ児屋ノ命・太玉ノ命に、

吾は則ち天ッ神籬及び天ッ磐境を起樹てて、当に吾孫の為めに斎ひ奉らむ。汝天ノ児屋ノ命、太玉ノ命、宜しく天ッ神籬を持ちて、葦原の中ッ国に降りて、亦吾孫の為めに斎ひ奉れ。

と仰せられた執心に副ひ奉るのである。

神社に斎き祀る神は、皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖の命以下、皇運扶翼の大業に奉仕した神霊である。
この神社の祭祀は、我が国民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。
氏神の祭に於て報本反始の精神の発露があり、これに基づいて氏人の団欒があり、又御輿を担いで渡御に仕へる鎮守の祭礼に於て、氏子の和合、村々の平和がある。
かくて神社は国民の郷土生活の中心ともなる。
更に国家の祝祭日には国民は日の丸の国旗を掲揚して、国民的敬虔の心を一にする。
而してすべての神社奉斎は、究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであつて、こゝに我が国の敬神の根本が存する。

祭には、穢を祓つて神に奉仕し、まことを致して神威を崇め、神恩を感謝し、祈願をこめるのである。
神に向ふ心持は、我が国に於ては親と子との関係といふ最も根本的なところから出てゐる。
即ち罪穢を祓つて祖に近づくことであり、更に私を去つて公に合し、我を去つて国家と一となるところにある。

而してその穢を去つた敬虔な心からの自然の発露としては、西行法師の
 何事のおはしますをば知らねども忝さの涙こぼるる
といふ歌がある。

神社は国家的の存在であるのを根本義とするものであるから、令に於ける神祇官以来、国家の制度・施設として有して来たのであつて、現在に於ける各派神道、その他の一般の宗教とはその取扱を異にしてゐる。
明治天皇の御製には、

とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ

と仰せられ、又、祝部行氏も、
 神垣に御代治まれと祈るこそ君に仕ふる誠なりけれ
と詠んでゐる。
かくて皇大神宮は我が国神社の中心であらせられ、すべての神社は国家的の存在として、国民の精神生活の中軸となつてゐる。

我が国祭祀の本旨は以上の如きものであるが、これを西洋の神に対する信仰に比すると、その間に大なる逕庭がある。
西洋の神話・伝説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇国の初よりつながる国家的な神ではなく、又国民・国土の生みの親、育ての親としての神ではない。
我が国の神に対する崇敬は、肇国の精神に基づく国民的信仰であつて、天や天国や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的国民生活から流露する奉仕の心である。
従つて我が国の祭祀は、極めて深く且広き意義をもつと同時に、又全く国家的であり、実際生活的である。


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大祭日であるこの1月3日ですが、歴史を振り返りますと、やはりいろいろな出来事がありました。

明治元年(皇紀2528・西暦1868)の「1月3日」には、鳥羽・伏見の戦いが勃発します。

旧幕府軍の会津・桑名藩兵が薩摩・長州の兵を討つため、大阪(大坂)から京都に入ろうとして、京都南郊の鳥羽と伏見で起こった戦いです。

世にいう戊辰戦争の始まりです。

明治元年が干支で戊辰(つちのえたつ)の年にあたるので、こう呼ばれています。

今年は、この戊辰戦争について、初等科国史の教科書の中から関連個所を一部抜粋してご紹介します。

昭和の小学生らが学んだ「日本」を、令和に生きる私たちも一緒に学びましょう。
※振り仮名を括弧付きで表記しているのは私の手によるもので、原点では当該箇所の文字横に併記されています。

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**初等科国史【第十二 のびゆく日本(にっぽん)】から【一 明治(めいじ)の維新(いしん)】より

 さきに、慶喜が大政を奉還したのち、朝廷では、諸政一新の思し召しから、慶喜に官職や幕府の領地を返上するよう、お命じになりました。ところで、幕府の旧臣や会津(あいづ)・桑名(くわな)などの諸藩は、慶喜が新政府(せいふ)の列に加らないのを見て、もっぱら薩・長二藩の取り計らいであろうと思いこみ、明治元年の正月から一年半ばかり、次々にさわぎを起しました。すなわち、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦から、さわぎは、やがて江戸に移り、更に奥羽(おうう)から函館(はこだて)へと飛火(とびひ)しました。朝廷では、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王を征討大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じて、鳥羽・伏見の戦をおしずめになり、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(とうせいだいそうとく)に任じ、西郷隆盛らを参謀として、江戸及び東北のさわぎを、御平定(ごへいてい)になりました。

 東征軍が江戸に向かった時、慶喜は、ひたすら恭順(きょうじゅん)の意をあらわしました。この間、孝明天皇の御(おん)妹、静寛院宮(せいかんいんのみや)の御(お)とりなしがあり、やがて、慶喜の家臣勝安芳(かつやすよし)・山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)の努力と隆盛の真心とによって、慶喜は罪(つみ)をゆるされ、江戸の市民は、兵火の災害から、まぬかれることができました。奥羽では、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)が、若松城(わかまつじょう)にたてこもり、諸藩と相応じて兵を挙げましたが、やがて順逆の道をさとると、すぐに帰順(きじゅん)を申し出ました。会津の白虎隊(びゃっこたい)と名づける少年の一団が、はなばなしく戦って、次々に討死し、わずかに残った十九人が、飯盛山(いいもりやま)にのぼり、はるかに城を望みながら、たがいに刺(さ)しちがえて、けなげな最期(さいご)をとげたのは、この時のことです。函館では、もと幕府の海軍を指揮(しき)していた榎本武揚(えのもとたけあき)が、五稜郭(ごりょうかく)にたてこもりましたが、これも、ほどなく降(くだ)りました。

 のちに朝廷では、容保が、孝明天皇の御(ご)信任のもとに、京都を守護して忠勤をはげんだ功を思し召され、その罪をおゆるしになった上、正三位(み)をお授けになりました。武揚もまた、ゆるされて重く用(もち)いられ、その職務にはげみました。

 新政がしかれてのちに、なおこうしたさわぎが起ったのも、一つには、大名(だいみょう)が昔のままに領内を治めていたからです。そこで木戸孝允は、大久保利通とともに、大名の領地を朝廷に奉還させ、新政が国のすみずみまで行き渡るように努力しました。すでに大名も、多くは、それを望んでいましたから、明治二年、まず薩摩・長門(ながと)・土佐・肥前(ひぜん)の四藩主が相談して、領地の奉還をお願い申しあげ、ほかの諸藩も、続々これにならいました。朝廷では、これをお許しになりましたが、なおしばらくは、旧領を治めるようお命じになり、やがて明治四年に、藩を廃(はい)して県を置き、新たに知事(ちじ)を御(ご)任命になりました。この時にも、これまでのように家がらだけを重んじる習わしをやめて、広く人材をお用いになりました。ついで明治五年には、国中に教育が行き渡るようにと、新たに学制をおしきになり、また国民すべてが兵役(へいえき)に服することのできるようにと、徴兵令(ちょうへいれい)をお定めになりました。こうして、政治はまったく改り、国民の心もすっかり新しくなって、維新のまつりごとが、大いに整ったのであります。

 明治天皇は、王政復古の思し召しから、神々をあつくおうやまいになり、国民にも、これをおさとしになりました。明治二年には、東京九段坂(くだんざか)の上に招魂社(しょうこんしゃ)を建てて、国事にたおれた維新の将士を、おまつらせになりました。また、維新の志士(しし)が手本にした、吉野(よしの)の忠臣にも、それぞれ社を建てて、あつくおまつらせになりました。こうして明治の日本は、御恵みのもとに、昔ながらの美風(びふう)を伝えながらも、新しく、正しく強く、しかも明るく、のびて行きました。


 ***

黒船来航という「西洋=近代との接近遭遇」から始まった幕末のカオス。

欧米列強によるアジア侵略という世界情勢の中にのみ込まれた日本は、明治維新への道を選択していきます。

明治維新は、日本の政治、経済、法制度、文化、宗教、学問、芸術、言語、風俗、習慣などあらゆる社会領域での大変動へと波及した「御一新」そのものであり、王政復古ノ大号令(慶応3年12月9日)の「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」との仰せの通り、「日本の清き源流に立つ」ことを主眼とするとともに、近代日本の社会、経済、文化、そして人間そのものを生み育む「明治のルネサンス」ともいうべき歴史的一大文化運動でもありました。

こうした幕末から近代への生活と思考、思想・行動・意識のスタイルの変化という流れにあった当時、戊辰戦争は避けることのできない本当に不幸な戦いであったといえるでしょう。


幕藩体制を通じて形成された封建領主階級は決定的に弱体化し、封建制度の終焉と国民的統一国家樹立の機運を飛躍的に増大させたことも事実です。

また幕府の倒壊と正統な新しい正式政府の誕生は、幕末以来の半植民地化の危機から日本が脱出する可能性を大きく増大させるものとなった事実も決して見逃せません。


戊辰戦争はあまりにも不幸な悲しみでもありますが、その意義の大きさは計り知れないものがあります。

近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われ、国家のために一命を捧げられたこれらの人々のおかげで、現代日本は築かれているのだということを、私たちは決して忘れてはなりません。


ちなみに靖國神社の前身である「招魂社」はこうした方々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために創建されたというお話は以前にもご紹介した通りです。

     ◇

明治21年(皇紀2548・西暦1888)の今日、勲功を表彰して国家が授与する宝冠章・旭日桐花大綬章・瑞宝章等が制定されています。

その起源や由縁を悠久の古にさかのぼるお祭りから、現代日本の基礎を固めた不幸な戦い、そしてその先に育まれた国民国家の世の栄典まで。

1月3日の「今日は何の日」にちなんで皆さまと想いを寄せ合いたいお話として今年もお届けしました。

日本の大切な大祭日のひとときをこうしてお迎えし、本来は栄え行く御代の年の始めを祝い、天皇陛下の万歳を祈る一日でもあるのですが、今年のお正月は「令和6年能登半島地震」を受けて、その悲しみと動揺の中で発生した昨日の羽田空港での航空事故。

元日から立て続けに起こった衝撃的な災害と事故によって、例年とは全く異なる辛い新春を迎えることになりました。

まさに令和6年は「お正月を失った年」として、後世の歴史家が記録し、末代まで記憶され続けることでしょう。

日に日に明らかになる震災被害の状況に胸が痛くなるばかりですが、被災者の救済と被災地の復興はこれから本格的に取り組まれ、官民一致の総力戦的な努力が求められていくことになります。

東日本大震災の時もそうですが、被災者の救済や支援、被災地の復興にとって何よりの強みは「日本らしさ」や「日本人らしさ」です。

古来より「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」と表現された「大和魂」という言葉がありますが、この「大和魂」は時に「世のため人のため」や「お互いさま」そして「協調性」や「協力性」などといった伝統や人間の感情、情緒を支える「日本というお国柄」と「日本人というお人柄」のエッセンスとなっています。

それは、共助、共生などの「助けあい」を大事にする日本の風土や世の中を育み続けてきたものでもあります。


     ◇

こちらでも常々「皇国の道」というお話を皆さまへお伝えしています。

この「皇国の道」とは、歴史上極めて多義的に語られている言葉なのですが、一般に教育勅語にお示しの「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、「端的にいえば皇運扶翼の道」と解されます。

すなわち日本では、「国家権力の質的形成を伴う経済、法体制、文化、宗教、道徳、学問、芸術、風俗・習慣などあらゆる領域の全般にわたって皇国の道を洗練」させることを社会、経済、文化、人間の普遍的なエッセンスとしてきた歴史的伝統としてきたわけです。

こうした日本の歴史・文化・社会を土台として揺るがない社会秩序と個人の自我を支えている基本的価値が育まれ、それは個々人の違いを超えて「みんなが寄り添い、ともに手をつないで生きていく」という「麗しい雰囲気」を「何となくのムード」として日常の生活空間の中の「空気」のようにしてきたことも指摘しておかねばなりません。

「日本というお国柄」や「日本人というお人柄」を根本的に育み続ける普遍的なエッセンスが、常に私たちを「空気」として包み込み、そして私たちの中に「いのち」として宿しながら生きており、それらの「むすび」こそが「日本=国体」であり「日本人」であるのだということを、あらためて皆さまとともに想いを深め合います。


     ◇

教育勅語の御趣旨を奉体して、皇国の道を修め、忠良な日本国民として国体に対する信念を確立し、合理創造の精神を養い、剛健な心身を鍛錬し、情操と技能を醇化し、文化、科学技術、産業報国の実践力をますます養成して、国力が強く、すべてのことが興隆し、国民が世界に羨むものがなく生活する国にしていきましょう。

皆さまとともに、天皇陛下の大御心に感謝し、そのご恩に報いる日本人としての自覚と想いを深め合っていきたいと思います。


ここに畏くも 明治天皇の「神祇」というお題の御製(明治35年)を謹んで奉戴致します。


ちはやふる 神のまもりに よりてこそ わが葦原の くにはやすけれ
口語訳:すばらしい神々のご加護があればこそ、わが日本の国は安泰を保っていられるのである。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』


 ***

元始祭
作詞:鈴木重嶺
作曲:芝葛鎮

 天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の 際限(きはみ)なく。
 天津璽(しるし)の 動きなく。
 年のはじめに 皇神(すめがみ)を。
 祭りますこそ かしこけれ。
 四方(よも)の民くさ うち靡(なび)き。
 長閑(のど)けき空を うち仰ぎ。
 豊栄(とよさか)のぼる 日の御旗(みはた)。
 たてて祝(い)ははぬ 家ぞなき。


   ◇

上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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