昨年のウクライナ事変勃発を経て、戦後世界の質的転換を伴う「新しい冷戦」=第二次東西冷戦の正式な“開戦”を迎えた今年。

イスラエルとハマス・パレスチナの間で生じた「中東事変」をも惹起する流動的な国際情勢が、各国に大きな悪影響を及ぼし始めています。

日本に目を向ければ、こうした「緩やかに崩壊していく戦後世界」とどこかで連動した「地殻変動」であるかのように「自民党パー券事件」が発覚し、まさに現下「日本臨時政府=暫定政権(戦後レジーム)の担任与党」たる役割を果たし続ける自由民主党という政党が、いよいよその歴史的崩壊の序章へ突入しました。

世の中では、旧ジャニーズ事務所(現SMILE―UP.)の創業者で「ジャニー喜多川」こと故喜多川擴(きたがわひろむ)氏による性加害問題の告発を起因としたジャニーズ・ショックの余震は、宝塚歌劇団の「いじめ」自殺問題から、「ダウンタウン」松本人志氏による「性加害疑惑」報道まで噴出させる事態へと及んでいます(松本氏に関する報道は未だ疑惑段階であるためここでの言及は避けます)。

まるで「旧来の陋習としがらみ」が足元から地盤沈下をして“自然崩壊”するかのような動きのようにもみえてなりません。

間違いなく「事の大小を問わず、これまでの“何か”が自壊し始めている」ということです。

私たちは、やがて歴史による審判を受けることになる「時代の過渡期」に際会し、当事者としてリアルタイムに生き、その過程を目撃している歴史的世代であるといえるでしょう。

間もなく迎える令和5年の年越しを前に、あらためて皆さまと一緒に考え、想いを深め合いたいお話をお届けします。

     ◇

文久3年(皇紀2523・西暦1863)の「12月30日」、朝廷は将軍後見職の徳川慶喜、京都守護職の松平容保、福井藩主の松平慶永、土佐藩主の山内豊信、宇和島藩藩主の伊達宗城ら5名に朝政参与(以下朝議参予)を命じます。

翌年の元治元年(皇紀2524・西暦1864)正月13日には、ここに薩摩藩主の島津忠義の実父で同藩の最高実力者であった島津久光も加えられました。

この4カ月ほど前、会津藩と薩摩藩の公武合体派連合が、長州藩を中心とする尊皇攘夷派を京都より追放したクーデター事件が起こっていました。

世にいう「八月十八日の政変」または「文久の政変」あるいは「堺町門の変」として知られる幕末の大事件です。

この結果、長州藩は堺町門の警備を免ぜられ、尊皇攘夷派の三條實美(三条実美)以下7人の公卿が失脚し、長州へと下りました。

世にいう「七卿落」です。

どちらも「今日は何の日」の関連トピックスで取り上げた幕末重大事件ですが、この「八月十八日の政変」「七卿落」ののち、かねてから「雄藩連合による公武合体」を主唱していた島津久光は、京都に入り、陛下の御もとに雄藩の藩主、前藩主など当代屈指の英明な実力者を集め、時の幕政に指示を与える公武合体政権の樹立のために動きます。

その結果が、この朝議参予の勅任でした。

先に5月の攘夷断行のために上京した後、いったん帰府していた14代将軍徳川家茂も、また大坂経由で、元治元年正月15日に着京、21日には右大臣親任の栄を賜ります。

正式な勅任以前からすでに京都にあって、久光や慶永の宿舎でたびたび会合していた参予の面々は、元治元年の正月から2月にかけて、御所や二条城で数日ごとに会合し、大小の国政問題を議論しています。

しかし、とくに京都を追われた三條實美らを受け入れている長州藩の処分や、横浜鎖港の可否をめぐり、朝廷の公卿たちや、将軍家茂、政事総裁職の松平直克らも含めての意見が対立しました。

松平慶永は「2月19日」にいったん辞意を表明し、山内豊信は「2月20日」に辞職して帰国します。

久光の横浜鎖港反対論などが強く出されたこともありましたが、国政の実質的な主導権を巡って、家茂や慶喜と、慶永、久光、宗城らの対立が決定的となり、「3月9日」には残る5名全員が朝議参予を辞職し、事あるときに参内することで陛下の裁可を賜ったため新日本建設の礎を定めることを期した朝議参予の合議体は解体しました。

     ◇

天下泰平の世を謳歌していた日本で、「黒船来航」による「西洋=近代との接近遭遇」という歴史的なインパクトを受けた幕末、当時の朝廷以下、江戸幕府、全国各藩から在野の識者まで「世界の中の日本」を痛感し、意識せざるを得ない壮大な歴史的過渡期を迎えることになります。

これは「日本の問題は日本人同士だけで完結できたシンプルな時代」が、欧米列強によって力づくで絶たれたことを意味しています。

こうした祖先らの苦悩や試練は、この令和の御代に生きる私たちも同じエッセンスを抱え込み、あるいは背負い込んでいます。

激動する国際情勢と「グローバリゼーション」という作用がもたらす自国の質的転換を巡る政治・思想・文化闘争というエッセンスです。

こうして歴史を振り返り、真正面から向き合うことで出会える過去に生きる祖先らやその時代と、いまを生きる私たちやこの令和の御代と照らし合わせてみると、何とも言葉に形容しがたい想いが込み上げてくるのを抑えることができません。

すっかり目先の金儲けと自分の利益と娯楽だけに自意識が偏ってしまっている私たちと、過去に生きる祖先らとが同じ「日本人」であるということが本当に信じられないからです。

あらゆる社会領域で「機能不全」とも思しき社会政治的諸問題が様々に目立つ中、この想いは一段と強まるばかりです。


     ◇

明治31年(皇紀2558・西暦1898)の今日、地租条例改正・田畑地価修正法がそれぞれ公布されています。

日清戦争後第二増税の一環としての施策としてなされたものです。

そもそもの「増税」や「減税」を巡る議論は、「それによって目指す国のかたち」と「その成果の是非」に尽きます。

具体的・歴史的情勢や現在の特殊な条件、社会的実践から生まれる歴史的経験に基づいて時々の「増税」や「減税」は決断されていきます。

「増税」の理由と結果、「減税」の理由と結果、メリットとデメリットのそれぞれを客観的に向き合いながら公正な社会政治的評価を下していくべきものであるということです。


以前にもお話しした通り、現在の状況は、実際上「中福祉高負担」になっています。

「旧来の中福祉水準を維持するために増税を行うが、国の財政健全化のために財政の支出規模を縮小する」という「増税+緊縮財政」という致命的な罪悪ともいうべき怪奇なシステムを機能させ続けてきたからです。

岸田文雄内閣は、まさにこうした悪質なシステムを改善することを匂わせた“新しい資本主義”やら“令和の国民所得倍増計画”やらといった思わせぶりな「スローガン」を掲げて誕生したのですが、この怪奇なシステムの政治的作用はそのままとなっていて、もはやこうした「スローガン」はすっかり死語となっています。

岸田内閣は「何をしたいわけでもない内閣」「言いはするけど、やりはしない内閣」と化し、「アメリカ+日本の官僚政治」のリモートコントロール下で動く「米・官の傀儡政権」でしかありません。

関連トピックスでもお話ししましたが、「高負担には高福祉」「中負担には中福祉」「低負担には低福祉」という至極当然の常識である「当たり前」の選択肢を、私たち日本国民一人ひとりが自ら選び出し、自分自身の社会政治的選択として、決然と意思表示を明らかにするべき新時代にとっくに入っています。

「増税+緊縮財政」=「中福祉高負担」というのは、こうした「常識的な政治的選択と意思表示」を私たち日本国民が一切することなく、「何となく」の「なれ合い」によって帰結した「私たちの無責任・無関心・無自覚なる怠惰」の産物です。

虚弱化した社会と国民生活の現実は、ゆとりも余裕も失っているために、もはやこれまでのように「他人事」「人任せ」だけでは済まないほどに悪化しています。

何事も私たち日本国民の意思=世論が時代をつくり、未来を紡いでいくのだということを、みんなで一緒に考え合い、想いを寄せ合いながら向き合っていきましょう。


     ◇

「過去に生きる祖先」と「現在を生きる私たち」は、その平時の「ありふれた日常」においてライフスタイルや言葉遣いなどの違いこそあれ、時々の喜怒哀楽に満ちた平凡なひとときを過ごす人間としての日常は全く同じです。

「明治・大正・昭和の三大聖代に生きた日本人」と「令和の御代に生きる私たち」も、そうです。

多彩なポップカルチャーを謳歌する私たちと同様に、すでに戦前の日本人も洗練された「明治ハイカラ」「大正ロマン」「昭和モダン」という近現代日本文化から「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれたマス・サブカルチャーまで、その平時の「ありふれた日常」においてみんなが楽しんでいました。

その姿と世の中に、戦前と戦後も全く違いは無いのです。

しかし、それでも「過去に生きる祖先」と「現在を生きる私たち」が同じ「日本人」であることが到底信じられないこの現在の「生態」あるいは「実態」が浮き彫りにする「分断」とも思しきものの真実は一体何なのでしょうか?


「こんな日本に誰がした」

という責任は、他の誰でもないその時代のいまを生きる私たち一人ひとりの責任です。

日本の歴史=悠久の国史という時間の中でいまもリアルタイムに「過去に生きる祖先」から「そんな日本にするために我が身命を捧げたわけではない」といわれたり、あるいは「未来に生きる子孫」から「こんな日本になったのはあなたたちのせいだ」といわれたりしないよう、誠実に努める歴史的責任が「現在を生きる私たち」にはあります。

「日本=国体」を過去から受け継ぎ、大切に愛しみ合い、ともに守り育み合って、現在から未来に向けて輝かせる日常を通じて、「過去に生きる祖先」からも「未来に生きる子孫」からも「愛しい日本を守り抜き、素敵な日本にしてくれてありがとう」と感謝され、安心してもらえるような「現在を生きる私たち」となれるよう、心ひとつにみんなで手をつないで「日本人」としての日常を営んでいきましょう。


最後に、畏くも 昭憲皇太后の「埋火」というお題の御歌(明治21年)を謹んで奉戴致します。


ことなくて くれぬる年を しづかにも かたらひふかす 埋火のもと
口語訳:変わったこともなく無事に暮れた年を、静かに語りあって大晦日の夜をふかすことです。火鉢の埋み火をかこんで。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



   ◇

上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

Copyright(C) 「日本学会」 All rights reserved.