本日12月8日は特別な日です。

日本人のみならず、人類にとっての運命の日と申しあげて過言ではありません。

それだけ人類が紡いできた歴史の中で、極めて特別な意味がある日でもあるのです。


とても長いお話になりますが、どうか最後までお付き合いください。

     ◇

昭和16年(皇紀2601・西暦1941)12月8日に大東亜戦争は始まりました。

8月15日の「終戦記念日」はよく知られていますが、そもそものその戦争が始まった「開戦記念日」をご存知ない方も少なくありません。

2年前の今日は、その大東亜戦争開戦からちょうど80年目の「開戦記念日」を迎えました。

この大東亜戦争は、いわゆる“太平洋戦争”という名で知られていますが、日本での公称は「大東亜戦争」すなわち「東アジア全域における戦争」という意味で呼ばれていました。

そのため、アメリカ側からの呼称である“太平洋戦争”ではなく日本側の大東亜戦争という名称で統一します。


ここに大詔奉戴承詔必謹の想いを込めて「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」を謹んで奉戴致します。


**米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書【昭和16年12月8日】

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス



毎年、この12月8日に皆さまにお話しし、そして日本人としてともに寄せ合いたい想いは同じです。

それは大東亜戦争開戦80周年であった2年前の今日、お届けした内容に尽きますので、今年の今日もあらためて皆さまへお届けします。

     ◇

「あの戦争は何だったのか?」
 

このテーマを巡って、今日まで様々な研究や考察が勤しまれ、昨今の政治的現実問題として外交懸案にもなる「歴史認識」に対する批評も絡んで、様々な言論や報道が展開されてきました。

ここで意外と知られていない「日本が戦争をする理由」として当時の日本政府が公式に発表した政府声明をご紹介します。

すっかり馴染みのない言葉遣いに加え難しい漢字も多いですが、ぜひ最後までお目を通してください。

帝国政府声明【昭和16年12月8日】

恭しく宣戦の大詔を奉戴し茲に中外に宣明す、抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。然るに、曩に中華民国は、我真意を解せず、徒らに外力を恃んで、帝国に挑戦し来り、支那事変の発生を見るに至りたるか、御稜威の下、皇軍の向う所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我手に帰し、同憂具眼の士国民政府を更新して帝国は之と善隣の誼を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一箇国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の抗戦を続くるに過ぎず、然れども英米両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百万支那事変の収結を如害し、更に蘭印を使嗾し、仏印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かんがため、策動至らざるなし、乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せんとする自然的要求を阻害するに寧日なし、その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、遂に無道にも、経済断交の挙に出ずるに至れり、凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす、然も両国は更に与国を誘引して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加うるに至れり。

帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、隠忍自重八箇月の久しきに亘り米国との間に外交々渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に付和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威との許す限り、互譲の精神を似て事態の平和的解決に努め、尽す可きを尽し、為す可きを為したり、然るに米国は、徒らに架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、与国とともに露わに武力の脅威を増大し、帝国を屈従し得べしとなす、かくて平和的手段により、米国ならびにその与国に対する関係を調整し、相携えて太平洋の平和を維持せんとする希望と方途とは全く失われ、東亜の安定と帝国の存立とは方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり、聖旨を奉体して洵に恐懼感激に堪えず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従い、以て東亜の禍根を永久に芟除し聖旨に応え奉るべきの秋なり。

惟うに世界万邦をして各々その感を得しむるの大詔は、炳として日星の如し、帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かんとするの方針は、固より渝る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を画し、新秩序の建設に邁進するの決意は、益々牢固たるものあり、而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新に行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜の明々本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たんと冀念するに他ならず帝国はこれら住民はわが真意を諒解し帝国とともに東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり、今や皇国の隆替東亜の興廃はこの一挙に懸れり、全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く想を致し、苟くも驕ることなく、又怠ることなく克く竭し克く耐え、以て我等祖先の遺風を顕彰し難関に遭うや必ず国家興隆の基を啓きし我等の租先の赫々たる史績を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨の翼賛に万遺憾なきを誓い進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らんことを期せざるべからず。   

以上


 ***

宣戦の大詔と帝国政府声明に「日本がなぜ戦争をしたのか」の理由は明らかにされています。

大東亜戦争の大義とされた「大東亜共栄圏構想」ですが、近年の学者や研究者らの中に「そもそもはABCD包囲陣によって経済制裁を受けた日本が自国の資源枯渇に伴いアジア地域の資源エネルギー確保を動機として開戦したもので、東亜(東アジア)解放という大義は後付けであり当初の戦争目的では全くなかった」とする声が大きかったりします。

しかしこのように宣戦の大詔渙発と期を同じくして、上記のような政府声明が出ていたことは、私たち日本人が知っておかなくてはならない歴史的事実です。

ご覧の通り、開戦当初から日本一国の国益のみを目的としたものではなく、近代以降の欧米列強によるアジア侵略という世紀に裏付けられた「東亜の禍根を永久に芟除」し「米英の暴政を排除して東亜の明々本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たんと冀念する」ことを国家意思の公式表明として明らかにしています。

大東亜戦争開戦の当日、昭和16年12月8日には正午のラジオ放送で東条英機首相の「大詔を拝し奉りて」と題する以下の演説が放送されました。

◆◆◆

ただいま、宣戦の御詔勅が煥発せられました。
精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦いを行いつつあります。
東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも関わらず、ついに決裂のやむなきに至ったのであります。

過般來、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭支と連合して、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要して参りました。
これに対し、帝国はあくまで平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず、今日に至りました。
もし帝国にして彼らの強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期しえざるのみならず、ついには帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。

ことここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ち上がるのやむなきに至ったのであります。

今、宣戦の大詔を拝しまして、恐懼感激に耐えません。
私は不肖なりといえども一身を捧げて決死報国、ただただ宸襟を安んじ奉らんとの念願のみであります。
国民諸君もまた、おのが身を顧みず、醜の御楯たるの光栄を同じうされるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣は、必勝の信念を堅持することであります。
建国2600年、我等は未だかつて戦いに破れたことを知りません。
この史績の回顧こそ、いかなる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。

我等は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざるとともに、さらに栄えある帝国の明日を建設せんことを堅く誓うものであります。

顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、また敵の強大を恐れたものでもありません。
ひたすら世界平和の維持と人類の惨禍の防止とを顧念したるに他なりません。
しかも敵の挑戦を受け、祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、決然起たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これによって世界の制覇を目指しておるのであります。
この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せんがためには当然、長期戦たることを予想せねばなりません。
これと同時に、絶大の建設的努力を要すること、言を要しません。

かくて我等はあくまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、いかなる困難も障害も克服して進まなければなりません。
これこそ、昭和の御民我らに課せられたる天与の試練であり、この試練を突破して後にこそ大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるものであります。

このときにあたり、満洲国及び中華民国との一徳一心の関係、いよいよあつく、独伊両国との盟約、益々堅きを加えつつあるを快欣とするものであります。

帝国の隆替、東亜の興廃、正にこの一戦にあり。
一億国民が一切を挙げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。
八紘を宇となす皇謨の下に、この尽忠報国の大精神ある限り、英米といえども何ら恐るるに足らないのであります。
勝利は常に御稜威の下にありと確信致すものであります。

私はここに謹んで微衷を披瀝し、国民とともに大業翼賛の丹心を誓う次第であります。
終わり。


 ***

折から東京では大政翼賛会中央協力会議が開催され、東条総理総裁は開戦にあたって次のような決意を伝えました。

◆◆◆

帝国の隆替は正にこの一戦にかかっておるのであります。
今こそ一億の国民が一丸となって立ち上がるべき時期であります。

私は本日、これ以上何も申し上げません。
ただ諸君の赤誠に対しまする万幅の信頼の念をここに表明するにとどめたいと存ずるのであります。

どうぞ諸君は速やかに各自の部署にお帰りを願い、各自の職域においてどうぞ国民をご指導に相成り、時艱突破のために一路邁進されんことを希望してやまんのであります。


 ***

また、当時の政府広報機関であった情報局で次長を務めていた奥村喜和男はこの有名なメッセージを配信しました。

◆◆◆

日本は、我々の祖国日本は、本日実に重大なる運命の中に突入したのであります。
真に 皇国の興廃をかけて万里の波涛を乗り越えんとする苦難の道へ突進したのであります。
昭和16年12月8日は日本国民の永遠に忘るべからざる日となりました。


 ***

昭和16年12月13日には、東京日比谷原頭に国民大会が開催され、登壇した東条首相は次のように述べます。

◆◆◆

国民諸君。
積年に渡る米英の非道なる圧迫を排除すべく、畏き大詔を拝します。
皇軍が決起いたしまするや、旬日を出でずして早くも赫々たる大戦果をあげ、彼らが呼称する包囲陣をたちまちにして、現に大動揺をきたしておるのであります。
御稜威のもと錦旗の進むところ敵なく、天日ために輝く。
誠に東亜民族の希望の躍動するを覚えるのであります。


 ***

また第78回帝国議会衆議院本会議(昭和16年12月16日)では、東条首相は演説の中で次のように述べました。
※原文はすべて文語体

◆◆◆

そもそも帝国が今回、南方諸地域に対し新たに行動を起こすのやむを得ざるに至りましたのは、米英の暴政を排除して大東亜諸地域を明朗なる本然の姿に復し、新たなる大建設を行わんとするにほかならないのであります。
大東亜数億の住民もまた帝国のこの真意を了解して、無益の抵抗を行うことなく、むしろ我等の同志として速やかに帝国の企図する大東亜共栄圏建設の聖業に参加するに至らんことを切望してやまんの次第であります。
なお、この機会におきまして私は開戦以来の国民の熱誠あふるる愛国の至情に対しまして衷心よりの感激を表明するものであります。


 ***

ちなみに同本会議の中で、「陸海軍に対する感謝 並びに戦死者に対する敬弔決議案」が可決されました。
決議の中ではこう謳われています。

◆◆◆

今や皇国の隆替、東亜の興廃かかってこの一戦にあり。我が国民たるもの建国2600年の光輝ある歴史と祖先の遺蹟とに鑑み、敵の富強を怖れず劣弱を慢らず、億兆一心鉄丸となり、よく長期の艱苦に耐え、東亜永遠の平和を確立し、もって大東亜戦争の目的を貫徹せずんばやまず。今後、皇軍将兵諸士の責務はいよいよ重く、その労劬益々多かるべし。
衆議院は特に院議をもって陸海軍将兵諸士の意向を感謝し、その勇健を祈り、併せて忠肝義膽鬼神を哭かしむる殉国の英霊に対し深甚なる敬弔の忱を表す。右決議す。


 ***

田子一民衆議院副議長が同決議案を朗読した後「本決議案は正に国民の熱誠あふるる感激の総意を表したものでありまして、提案の理由は本文に明らかでありますから、特に趣旨弁明を要せざるものと存じます。よって直ちに採決致します。本案に賛成の諸君の起立を求めます」と決を採ると、起立総員のうえ拍手が起こりました。

田子副議長は「よって本案は全会一致可決致しました」と宣した後、「この際、戦死者の英霊に対し黙祷をささげたいと思います、諸君のご起立を望みます」と促すと、総員起立し黙祷が捧げられました。

昭和16年も暮れに入ろうとする12月30日、「世紀の黎明 東亜全民族に贈る」と題して東条首相は次のような演説をします。

◆◆◆

大東亜戦争の真っ直中に輝かしき戦果と相次ぐ捷報を耳にす。
かくも平穏裏に皇紀2602年を迎えましたることは、誠に御稜威のしからしむるところでありまして、恐懼感激に堪えぬ次第であります。
ここに私は国民諸君とともに謹んで聖寿の万歳を寿ぎ奉り、あわせて皇国の隆昌を祈願いたすものであります。
この戦争の元旦にあたり、我々は敵の寸前にあって、現に只今の生死を超越、身を砲弾、砲煙弾雨の中にさらし、寸部の油断なく、力戦奮闘したる将兵の上に、常に思いをいたすことを忘れてはなりませぬ。
しかして、国内に生活する我々もまたこれら前線将兵の心を心とし、寸部の油断なく、日常の生活を律しなければならないのであります。赫々たる緒戦の戦果を最後の勝利へと押し進めていくためには、勝てば勝つほど、なによりも心に油断が生じないように注意を怠ってはならないのであります。
およそ戦争に勝つためには、物質的な武装とともに精神的な武装が大切であります。
物には限りがありまするが、ただ、無限にして無尽蔵なるものは、実にこの精神力であります。
古来、幾多の戦史に徴しまするも、たとえ物質的には劣っておりましても、精神的に優れている者が、よく最後の勝利者となっておるのであります。

幸いにも我々は建国3000年来、この優れたる精神力を与えられておるのであります。
迎春に際し、我々一億同胞ことごとくは、いよいよ決意を新たにし、戦いはむしろ、今後にあることを肝に銘じ、ますます士気を奮い起こして、勝ってしかも驕らず、兜の緒を引き締め、聖戦目的の完遂に向かって突進していかなければならないと信ずる次第であります。
終わり。


 ***

この演説を配信した「日本ニュース」第82号は、満州国の張景恵国務総理と、中華民国の汪兆銘主席の次のような演説も報じています。

◆◆◆

盟邦日本の太平洋上の輝かしき大勝利の中に、我が国は建国10周年を迎え、4千3百万の国民は、無上の喜びと感激を覚える次第である。
今、東亜興隆の時期至り、八紘一宇の大精神が東亜全民族の光明に包まれる姿を眼前にして、我々は心から讃歎渇仰を禁じ得ない。

(満洲帝国 張景恵国務総理)

余は新年を迎ふるにあたり、この新しき年の重大なる意義を痛感するものである。
今年こそは百年来の英米の侵略を東亜の天地より駆逐し、以て東亜の新秩序を盟邦日本と共々建設せんとする秋である。
新秩序とは共存共栄であり、同甘同苦の精神である。
余は盟邦戦勝の元旦に当り、新中国の逞しき成長と東亜新秩序の建設による東亜の自由と解放の万歳を叫ぶものである。

(中華民国 汪兆銘主席)

 ***

時は流れて昭和18年(皇紀2603・西暦1943)11月5日・6日には、東京の帝国議会議事堂(現・国会議事堂)に中華民国の汪兆銘行政院長、タイ王国のワンワイタヤーコーン・ワラワン殿下(首相代理)、満洲国の張景恵国務総理大臣、フィリピン共和国のホセ・ラウレル大統領、ビルマ国のバー・モウ内閣総理大臣、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が集まって大東亜会議が開催され、その場で大東亜共同宣言が採択されました。

その内容を見てみます。
※原文はすべて文語体

**大東亜共同宣言【昭和18年11月6日】

抑々世界各国が各其の所を得、相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要義なり。
然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い大東亜隷属化の野望を逞うし遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり、大東亜戦争の原因茲に存す。
大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。

一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す。

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す。

一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昂揚す。

一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す。

一、大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す。


 ***

採決は起立によって行われ、大東亜会議において採択することに賛成の代表らが満場一致の起立をもって採択されました。

よってここに、道義に基づく共存共栄の秩序の建設、自主独立の尊重と互助敦睦、伝統の尊重と民族の創造性の伸暢、互恵的経済発展、人種差別の撤廃、文化の交流と資源の開放を綱領とする大東亜の建設を期す大東亜共同宣言は成立に至ったわけです。


この現代世界でも理想とすべき平和のイメージそのものであることがわかります。


これは日清・日露戦争のお話でも触れましたが、日本の平和と繁栄のためには、日本一国が欧米列強と肩を並べる近代的な「文明国」となるだけでは意味がなく、日本を取り巻く多数の国々が自主独立と近代化を実現し、東洋の秩序と安定をつくらなければ欧米列強(ロシア含む)によるアジア侵略という根本的な危機は解消できず、日本の平和と繁栄は保障できないという「現実」に対する理解と考えが、明治の聖代以降の日本人の大きなテーマでした。

この「日本が平和であるためには、日本を取り巻く多数の国が独立国として近代化を実現し、東洋の秩序と安定をつくる必要がある」という「現実」は、朝鮮半島情勢や台湾情勢といった国際情勢においても同様に私たちへ大きな課題を突き付ける現在とリンクするテーマでもあります。

支那(中華人民共和国)や北朝鮮の不穏な動静が注目される中、ウクライナ事変が勃発し、今年は中東の地においてイスラエル・パレスチナ事変も勃発しました。

明治、大正、そして昭和の聖代における大東亜戦争は、その「現実」というリアリズムにのみ込まれた中で、アジアに生きる日本人が運命をかけて己が身命を捧げた人類史上最も意義深い戦争であり、その意味でこの先二度と起こることのない、いえ、起こしようにも起こせない「人間が起こし得る最も美しい最後の戦争」であるといえるでしょう。

     ◇

ここで少しお話を広げます。

立法・行政と並んで、国家の活動の一分野をなすものに司法があります。

法規に基づき、現実に発生した法的争いや犯罪を処理していく働きのことです。

紛争が起こったり、犯罪が行われた場合、裁判所に訴えられた人を、裁判官が憲法や法律に基づいて裁く裁判の場では、判事(裁判官)・検事(検察官)・弁護人(弁護士)の三者が民事や刑事の各裁判において、それぞれの役割を果たします。

大東亜戦争については「歴史認識問題」なるものが隣国との外交懸案にまで悪化し、おまけに純粋な学術研究レベルの議論ではなく、時の社会政治的力学によって左右される「ソフトパワーゲーム」の様相を呈していますが、この「大東亜戦争に関する歴史認識」については裁判と同様に裁判官・検察官・弁護士のいずれの立場に立つかによって評価も認識も異なります。

一般に裁判では、検事の一方的な主張しか取り上げられなかったり、あるいは弁護人の一方的な主張しか取り上げられなかったりすることはありません。

司法権には、特に公正さが必要とされるからです。

この公正さは裁判の生命ともいえるもので、これが疑わしいとなれば、判決はおろか司法そのものの死を意味します。


「歴史認識」というのは「物事の判断・認識」という要素がとても大きいものがありますが、私がおよそ無関係な司法の話をなぜ例に出したのかというと、「物事の判断・認識」という場合に参考となる大切な普遍的基準を見出しているからです。

冒頭部分で、「あの戦争は何だったのか?」というテーマに触れ、長々と「当時の日本とアジア諸国の声」をご紹介しましたが、それはまさに「日本弁護側」からの立場の声が全く公に共有されてはいない現状を指摘したいからでした。

一般にそういう「日本弁護側」へ心無い誹謗中傷や偏見が向けられるムードが支配的でした。

しかし、例えばどんな刑事裁判でも弁護人は必ず付き、その弁護人に対して「凶悪な犯罪者とグルになってる」という誹謗中傷や偏見があってはならないのと同じように、大東亜戦争についても日本を弁護する側の立場が無ければアンフェアです。

「日本は悪い国で、あの当時、日本は悪い戦争をしてアジアの人々を苦しめた。合理的動機も情状酌量の余地もなし」という考えや声があってもいいのです。


裁判でいえば検察側の立場です。

一方で、冒頭からご紹介している日本側や日本と共に戦った国々の声や史料を取り上げ、弁護する弁護人側の立場もなければなりません。

正直、戦後の言論・教育その他一切の表現の分野においては検察側の主張だけで占められていました。

いわば「弁護人不在の法廷」そのものです。


そこでは「すべて被告(日本)が悪かった。被告がこんなひどいことをした」という検察側の主張だけが法廷に響いている有様です。

それがどんなに疑わしい内容であったとしても、弁護人がいない法廷では異議を申し立てる人は誰もいませんし、むしろそれすらも許されませんでした。

最近はようやくその異様な「法廷」にも、どこからともなく「異議あり」とささやく声が聞こえるようになりましたが、まだ「法廷」には検事しかおらず、弁護人の姿はありません。

そうした怪奇な言論空間が戦後社会そのものを形成してきたと言っていいでしょう。

その悪影響は日本の社会秩序と個人の自我を支えている基本的価値の判断基準にまで及んでいます。

戦後現代社会を暗く覆い尽くす政治、経済、法制度、文化、宗教、学問、芸術、言語、風俗、習慣などあらゆる社会領域でのネガティブな事象の原因もそこに見出せると私は考えます。

大東亜戦争という歴史上の出来事に対する認識を巡る判断にあたっては、「判事」・「検事」・「弁護人」それぞれの立場と基準によって異なります。

皆さまは「検察官」の立場ですか?
あるいは「弁護士」の立場ですか?
あるいは「裁判官」の立場ですか?

私はそのいずれの立場も尊重します。

ただこれだけは言えます。
日本を弁護できるのは日本人だけです。

「疑わしきは被告人の利益に」という言葉に見られるように、いわゆる「歴史認識」を巡る論争においても「疑わしきは日本の利益に」という立場に最後まで立つのは、この地球上で私たち日本人だけです。

私はひとりの日本人として、これからも日本の歴史のすべてを弁護し続けてまいります。


     ◇

太上天皇のご譲位に伴い、天皇陛下のご即位を仰ぎ奉り、政治、社会、経済、文化、そして人間が問われるエッセンシャルなテーマと向き合う新時代となる令和の御代をお迎えし、太古より変わらぬ御稜威の下に生きる私たち。

本日、そんな令和の御代に迎えた大東亜戦争開戦から82年目の12月8日

ここでもうひとつ、どうしても触れておきたいお話があります。

それは冒頭に奉戴致しました「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」に拝する大御心についてです。

畏くも 昭和天皇には、この宣戦の大詔にてこのように仰せです。


抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ


終始、世界平和と国際親善、共存共栄を望まれ、最後まで戦争に反対しておられた 昭和天皇の「豈朕カ志ナラムヤ」との大御言に込められた深いお悲しみとお苦しみを拝することができ、涙が出てまいります。

「私たち戦後現代人」と「英霊の日本人」とは何が違うのでしょう?
本当に同じ「日本人」でしょうか?

私たちが「日本人」ではなく、単なる「地理上の日本列島の住民で、日本語という共通語を話す人々」とならないためにも、私たちが歴史という時間とつながって常に向き合い、問い続けることの価値は計り知れないほど大きいものがあります。


     ◇

今年より、初等科国史と修身の教科書の中から、大東亜戦争に関する箇所をいくつか抜粋してご紹介します。

昭和の小学生らが学んだ「日本」と「世界」そしてリアリズムを、令和に生きる私たちも一緒に学びましょう。

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**初等科国史【第十五 昭和(しょうわ)の大御代(おおみよ)】から【二 大東亜戦争(だいとうあせんそう)】

 わが国は、さきに内鮮一体の実を挙げて、東洋平和の基(もとい)を築き、今また、日満不可分の堅陣(けんじん)を構(かま)えて、東亜のまもりを固めました。しかも、東洋永遠の平和を確立(かくりつ)するには、日・満・支三国の緊密(きんみつ)な提携(ていけい)が、ぜひとも必要であります。わが国は、支那にこの旨をつげて、しきりに協力をすすめました。ところが支那の政府(せいふ)は、わが誠意を解(かい)せず、欧(おう)米の援助(えんじょ)を頼みに排日を続け、盛んに軍備を整えて、日・満両国にせまろうとしました。

 果して、昭和十二年七月七日、支那兵が、北京(ぺきん)近くの盧溝橋(ろこうきょう)で、演習中のわが軍に発砲して戦をいどみ、更に、わが居留民に危害を加えるものさえ現れました。

 わが国は、支那の不法を正し、さわぎをくい止めようとつとめましたが、支那の非道(ひどう)は、つのるばかりでした。ここに、暴支(ぼうし)膺懲の軍が派遣(はけん)せられ、戦は、やがて北支から中支・南支へとひろがりました。

 この間、忠烈勇武な皇軍の将士は、各地に転戦して、次々に敵の根城を落し、早くも十二月十三日、首都南京(しゅとなんきん)を攻略して、城頭高く日章旗をひるがえし、翌十三年十月には、広東(かんとん)・武昌(ぶしょう)・漢口(かんこう)等の要地を占領しました。しかも、海軍が沿岸の封鎖(ふうさ)に当り、陸海の荒鷲(あらわし)が、大陸の空を制圧(せいあつ)しましたので、重慶(じゅうけい)へ落ちのびた敵の政府は、息もたえだえの有様になりました。

 かしこくも天皇陛下は、宮城内に大本営を置いて、日夜(にちや)軍務をお統(す)べになり、事変一周年の当日には、勅語(ちょくご)をたまわって、将士の奮闘と銃後の勉励とをおほめになり、日・支の協力による東亜の安定(あんてい)を、一日も早く実現(じつげん)するようにと、おはげましになりました。聖旨(せいし)を奉(ほう)体(たい) して、わが政府は、この年の明治節に、戦の目的(もくてき)が、支那の目をさまして、東亜に新しい秩序(ちつじょ)を作ることにある旨を声明しました。

 わが誠意に感激した支那の人々は、いくつか新しい政府を作り、これが基となって、昭和十五年三月、汪精衛(おうせいえい)の率いる新国民政府が、南京で成立しました。やがて十一月、わが国は、これと条約を結び、ここに日・満・支三国が、力を合わせて、東亜新秩序の建設に、はげむことになりました。しかし、重慶の政府は、なお米・英の援助によって、からくも命をつなぎ、あくまで、わが国に手むかい続けました。

 このころ、すでにヨーロッパでも、戦争が起っていました。欧洲大戦後およそ二十年間、ひたすら国力の回復につとめて来たドイツが、昭和十四年に、うらみ重なる英・仏(ふつ)その他の諸国と、戦争を開始(かいし)しました。しかもドイツは、たちまち、ポーランド・オランダ・ベルギーを撃ち破り、ついでフランスを降伏(こうふく)させ、その勢は、なかなか盛んであります。それに今度は、イタリアが、ドイツのみかたとして立つことになりました。

 わが国は、かねがね独・伊(い)両国と、志を同じゅうしていましたので、昭和十五年九月、改めて同盟(どうめい)を結び、三国ともどもに力を合わせて、一日も早く戦乱(せんらん)をしずめ、世界の平和を確立しようと約束しました。わが国は、東亜をりっぱな東亜に立て直すことを使命とし、独・伊は、欧洲を正しい欧洲に造(つく)りかえることを使命とする、──三国は、この大業をなしとげるため、たがいに助け合うことになったのです。

 ところで、米・英の両国は、重慶政府を助けて、支那事変を長引かせるばかりか、太平洋の武備を増強し、わが通商をさまたげて、あくまで、わが国を苦しめようとしました。しかも、わが国は、なるべく事をおだやかに解決しようと、昭和十六年の春から半年以上も、誠意をつくして、米国と交渉(こうしょう)を続けましたが、米国は、かえってわが国をあなどり、独・ソの開戦を有利(ゆうり)と見たのか、仲間の国々と連絡(れんらく)して、しきりに戦備を整えました。こうして、長い年月、東亜のためにつくして来たわが国の努力は、水の泡(あわ)となるばかりか、日本自身の国土さえ、危くなって来ました。

 昭和十六年十二月八日、しのびにしのんで来たわが国は、決然としてたちあがりました。忠誠無比の皇軍は、陸海ともどもに、ハワイ・マレー・フィリピンをめざして、一せいに進攻を開始しました。勇ましい海の荒鷲が、御(み)国の命を翼にかけて、やにわに真珠(しんじゅ)湾をおそいました。水(み)づく屍(かばね)と覚悟をきめた特別攻撃隊も、敵艦めがけてせまりました。空と海からする、わが猛烈な攻撃は、米国太平洋艦隊の主力を、もののみごとに撃滅しました。この日、米・英に対する宣戦の大詔がくだり、一億(おく)の心は、打って一丸となりました。二重橋のほとり、玉砂利(たまじゃり)にぬかづく民草(たみくさ)の目は、決然たるかがやきを見せました。

 ほとんど同時に、英国の東洋艦隊は、マレー沖のもくずと消え、続いて、かれが、百年の間、東亜侵略(しんりゃく)の出城(でじろ)とした香港(ほんこん)も、草むす屍とふるいたつわが皇軍の精鋭によって、たちまち攻略されました。昭和十七年を迎えて、皇軍は、まずマニラを抜き、また破竹(はちく)の進撃は、マレー半島の密林をしのいで、早くも二月十五日、英国の本陣、難攻不落(ふらく)をほこるシンガポールを攻略しました。その後、月を重ねて、蘭印(らんいん)を屈伏させ、ビルマを平定し、コレヒドール島の攻略がなり、戦果(せんか)はますます拡大されました。相つぐ大小の海戦に、撃ち沈められた敵の艦船は、おびただしい数にのぼっています。しかも、細戈千足(くわしほこちたる)の国のますらおは、西に遠くマダガスカルの英艦をおそい、北ははるかに米領アリューシャン列島を突いて、世界の国々をあっといわせました。

 この間、三国同盟は、一だんと固められて、独・伊も米国に宣戦し、日本とタイ国との同盟が成立して、大東亜建設は、更に一歩を進めました。今や大東亜の陸を海を、日の丸の旗が埋めつくし、日本をしたう東亜の民は、日に月によみがえって行きます。すべてはこれ御稜威(みいつ)と仰ぎ奉るほかありません。


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**初等科国史【第十五 昭和(しょうわ)の大御代(おおみよ)】から【三 大御代(おおみよ)の御栄(みさか)え】

 わが国は、尊い戦を進めながら、かがやかしい紀元二千六百年を迎えたのでありました。三国同盟が成立したのも、新しい支那と条約を結んだのも、この年、すなわち昭和十五年のことです。

 かしこくも天皇陛下は、このめでたい年の紀元節に、詔をおくだしになって、国民すべてが、神武天皇の御創業(ごそうぎょう)をおしのび申しあげ、いかなる難局をも切り開くようにと、おさとしになりました。ついで六月には、神宮を始め、橿原(かしはら)神宮・伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)・多摩陵などに、御(ご)参拝あらせられ、紀元二千六百年をお迎えあそばされたことを、したしく御(ご)報告になりました。

 同月、満洲国皇帝は、ふたたび御(ご)来朝、天皇陛下に、紀元二千六百年のお祝いを、したしくお述べになり、皇大神宮・橿原神宮・伏見桃山陵などに、御参拝になりました。皇帝は、かねがね、わが皇室の御(おん)徳をおしたいになり、日本と同じように満洲国を治めたいとのお考えでありましたので、御帰国(ごきこく)後、建国神廟(けんこくしんびょう)を帝宮(ていきゅう)内に建て、天照大神をおまつりになって、日夜、大神の御(み)心を奉体し、政治におはげみになることになりました。

 この年の九月、北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)が、尊い御(おん)身をもって、蒙疆(もうきょう)の地で御(ご)戦死をおとげになりました。国民の驚きは、ひと通りでなく、御(おん)祖父能久(よしひさ)親王の御(おん)事をもしのび奉って、感激の涙にむせびました。

 やがて、菊花(きっか)かおる十一月、宮城前の式場に、天皇・皇后両陛下の臨御(りんぎょ)を仰ぎ、おごそかに、紀元二千六百年奉祝の式典が催されました。この日、大空はさわやかに澄み渡って、一片(いっぺん)の雲影もなく、美しい式殿の両側には、銀色の鉾(ほこ)が、秋日を受けてきらきらとかがやき、朱色(しゅいろ)の旛(はた)が、そよ風にゆらいでいました。式場をうずめた参列者は、大君の尊い御(み)姿を仰ぎ、ありがたい勅語をたまわって感きわまり、声をかぎりに、万歳を奉唱しました。津(つ)々浦(うら)々の民草もまた、これに和し、奉祝の喜びのうちに、遠く国史をふりかえって、難局打開(だかい)の覚悟を新たにしました。

 遠すめろぎのかしこくも、はじめたまいしおお大和(やまと)、──まことにわが大日本帝国は、皇祖天照大神が、天壌無窮(てんじょうむきゅう) の神勅をくだして、国の基をお固めになり、神武天皇が、皇祖の大御心をひろめて、即位の礼をお挙げになった、尊い国であります。以来、万世一系の天皇は、いつの御代にも、深い御(み)恵みを民草の上にお注ぎになり、国力は時とともに充実(じゅうじつ)し、御稜威は遠く海外にかがやき渡りました。

 御恵みのもと、世々の国民は、天皇を現御神(あきつみかみ)とあがめ、国の御(み)親とおしたい申しあげて、忠誠をはげんで来ました。その間、皇恩になれ奉って、わがままをふるまい、太平に心をゆるめて、内わもめをくり返し、時に無恥無道(むちむどう)の者が出たことは、何とも申しわけのないことでありました。しかし、そうした場合でも、親子・一族・国民が、たがいに戒(いまし)め合い、不覚をさとし、無道をせめて、国のわざわいを防ぎました。清麻呂が道鏡の非望をくじき、重盛が父のわがままをいさめ、光圀・宣長らが大和心を説(と)いて尊皇(そんのう)の精神を吹きこんだなど、その例です。しかも、元寇の時のように、いったん外国と事の起った場合には、国民こぞってふるいたち、戦線・銃後ともどもに、力を合わせて国難を打開しました。また、大化の改新、建武の中興、明治の維新のように、内外多事の際には、勤皇の人々が続々現れて、大御業(おおみわざ)をおたすけ申しあげました。従って、わが国では、一見世の中が乱れたような場合でも、決して国の基を動かすようなことはありません。こうしたことは、わが国だけに見られることで、すべては御稜威のかがやきであり、尊い国がらの現れであります。

 昔、支那の勢が盛んで、あたりの国々を従えていた時でも、日本だけは、堂々と国威を示(しめ)して、一歩もゆずりませんでした。四百年ばかり前から、まずポルトガル・スペインが、ついでオランダ・イギリス・ロシアが、最後にアメリカ合衆国が、盛んに東亜をむしばみました。わが国は、いち早くその野心を見抜いて、国の守りを固くし、東亜の国々をはげまして、欧米勢力の駆逐につとめて来ました。そうして、今やその大業を完成するために、あらゆる困難をしのいで、大東亜戦争を行っているのです。皇国の興隆、東亜の安定は、この一戦とともに開けてゆくのであります。

 昭和十四年五月二十二日、かしこくも天皇陛下は、全国青少年学徒の代表を、宮城前で御親閲(ごしんえつ)になり、特に勅語をたまわって、日本の将来をになう、りっぱな人物になるようにと、おさとしになりました。つづいて、昭和十六年には、御国のお役に立つ、りっぱな国民を育てるために、小学校は、国民学校に改りました。私たちは、現にこの国民学校で、楽しく勉強しているのであります。

 私たちは、楠木正成が、桜井の里で、正行をさとしたことばを、よくおぼえています。

「獅子(しし)は子を産み、三日にして、数千丈の谷に投ず。その子、まことに獅子の気性あれば、はね返りて死せずといえり。汝すでに十歳に余りぬ。一言耳にとどまらば、わが教えにたがうことなかれ。今度の合戦、天下の安否と思えば、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。………敵寄せ来らば、命にかけて忠を全うすべし。これぞ汝が第一の孝行なる」

 私たちは、一生けんめいに勉強して、正行のような、りっぱな臣民となり、天皇陛下の御(おん)ために、おつくし申しあげなければなりません。


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**初等科修身 四【(六年生用)十七 よもの海】

 わが大日本は、道の国であり、義の国であります。四海同胞(どうほう)のよしみを結んで一致協力し、ともにさかえ、ともに楽しむ世界平和をつくろうとする国であります。この精神は、み国のはじめから今日まで貫ぬいて、変るところがありません。

 神武天皇は、大和(やまと)の橿原(かしはら)に都をおさだめになった時、
「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)む」
 と仰せになって、皇祖天照大神の大御心をおひろめになりました。御代御代の天皇は、この大御心のもと、皇化*93をあまねく四海にしくように、大みわざをおたてになったのであります。
 明治天皇の御製に、

 よもの海みなはらからと思ふ世に
  など波風のたちさわぐらむ


 というおことばを拝します。
 また、

 ひさかたの空はへだてもなかりけり
  つちなる国はさかひあれども


 とも仰せられてあります。
 明治天皇は、特に諸外国とのまじわりを厚くしようとおつとめになりました。世界の人々は、あたかも一家の者のしたしみあうように、仲よくむつびあわなければならないとの大御心を、この御製にも深く拝察いたすのであります。
 天皇陛下は、まだ皇太子であらせられた時、ヨーロッパ諸国をおめぐりになって、まじわりを厚くなさいました。そうして、今日まで、絶えず世界の平和について、大御心をもちいていらっしゃるのであります。
 世界の平和をはっきりとつくりあげるためには、いろいろの国が、たがいに道義を重んじ、公明正大なまじわりを結ばなければなりません。これを守らずに、他国の名誉(めいよ)を傷つけ、自国のためばかりをはかるのは、大きな罪悪(ざいあく)であります。したがって、このような国があるとすれば、それは世界の平和をみだすものであって、私たち皇国臣民は、大御心を安んじたてまつるため、断固(だんこ)として、これをしりぞけなければなりません。
 大東亜戦争は、そのあらわれであります。大日本の真意を解(かい)しようとしないものをこらしめて、東亜の安定(あんてい)を求め、世界の平和をはかろうとするものであります。私たちは、国の守りを固め、皇軍の威力をしめして、道義を貫ぬかなければなりません。
 御稜威(みいつ)は、今や遠く海を越えて、かがやき渡っています。国のはじめ以来の精神が次々にあらわされて、東亜の世界は、日一日と安らかになって来ました。私たちは、道義日本に生まれ、世界の人々をみちびく者として、ふだんのおこないをつつしみ、その手本となるようにつとめなければなりません。そうして、よもの海の人々がほんとうに一家のようにしたしみあい、むつびあう日が来るのを楽しみにして暮しましょう。


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**初等科修身 四【(六年生用)二十 新しい世界】

 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争の勃発(ぼっぱつ)以来、明かるい大きな希望がわき起って来ました。昭和の聖代に生まれて、今までの歴史にない大きな事業をなしとげるほこりが感じられて、たくましい力がもりあがったのであります。
 わが日本と志を同じくするドイツ、イタリア両国もまた新しい欧洲(おうしゅう)をつくろうとして、地中海に、アフリカに、大西洋に、米英(えいべい)に対する戦をくりひろげ、またソ連(れん)とも戦っています。世界をわがものにしようという野心によってつくられた古い世界が、しだいにくずれ落ち始めたのであります。

 こうして、私たちの目の前には、喜びにみちみちた希望の朝がおとずれました。いろいろの国家が、ともにさかえる正しい新しい世界は、やがて築きあげられるにちがいありません。
 すでに満洲国は、かがやかしい発展(はってん)をとげました。国民政府(せいふ)もまた支那で、着々とその基礎(きそ)を固め、タイ国も、東部インド支那も、日本と親密(しんみつ)な関係を結び、相たずさえて、大東亜建設(けんせつ)のために、協力(きょうりょく)しています。
 その上、わが戦果(せんか)にかがやく南方の諸地方は、新生の光にあふれ、マライや昭南島、ビルマやフィリピン、東インド諸島に響く建設の音が、耳もと近く聞えて来ます。大東亜十億(おく)の力強い進軍が始ったのであります。日本は、大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民(じゅうみん)へ、手をにぎりあうよう呼びかけています。日本人は、御稜威(みいつ)をかしこみ仰ぎ、世界にほんとうの平和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。

 私たちは、ゆたかな資源を確保し、軍備を固めて、敵を圧迫(あっぱく)し、おおしい心がまえを以て、建設をなしとげなければなりません。この大事業のためには身をささげ、力をつくすことが、だいじであります。私たちは、希望にみちあふれ、必勝の信念を以て、立ちあがらなければなりません。
 身命をなげうって、皇国のために奮闘努力しようとするこのおおしさこそ、いちばん大切なものであります。
 私たちは清く、明かるく、公明正大でなければなりません。男は、正しくたくましく、女は、すなおで強くあってこそ、日本の国はいよいよさかえて行くことができるのであります。
 日々の心がまえが、そのまま大きくなっての心がまえとなります。このような心がまえで進む時、新しい世界は私たちの手でできあがるのであります。私たちこそ、という意気ごみを以てのぞむとき、大東亜の建設はみごとになしとげられ、正しい世界が開けて来ます。
 今、はっきりと私たちの果さなければならない使命についてわきまえ、それを果すことのできる日本人となるようつとめましょう。


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大東亜戦争開戦から82年目を迎えた12月8日。

今年もあらためて奥村喜和男氏の言葉を振り返ります。

日本は、我々の祖国日本は、本日実に重大なる運命の中に突入したのであります。
真に 皇国の興廃をかけて万里の波涛を乗り越えんとする苦難の道へ突進したのであります。
昭和16年12月8日は日本国民の永遠に忘るべからざる日となりました。


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日本人である私たちは今日の時の流れへともに想いを深め、心を寄せ合っていきましょう。

最後に、畏くも 昭憲皇太后の「心」というお題の御歌(明治21年)を謹んで奉戴致します。


むらぎもの 心にとひて はぢざらば 世の人言は いかにありとも
口語訳:自分の心に問い質して恥じることがないならば、たとえ世間の人がなんと言おうとも、少しも気にすることはありません。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



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上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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