慶応3年(皇紀2527・西暦1867)の「10月29日」、幕府は大政奉還を各国公使に通達しました。

大政奉還は、武家支配による675年の長きにわたる国家権力の質的転換を意味しますが、単なる幕藩体制の転換にとどまるものではなく、徳川家を長とする幕府ないし各藩が担っていた社会経済的利害関係の根本的変化を意味し、これに準じて、幕藩権力の首脳部である征夷大将軍や藩主の交代ばかりでなく国家諸装置の全面的再編成をも伴う社会的政治的勢力関係の急激な変動を生み出しました。

この国家権力の質的転換を伴う大政奉還を基軸とし転換点として、日本の政治、経済、法制度、文化、宗教、学問、芸術、言語、風俗、習慣などあらゆる社会領域での大変動へと波及していきました。

これが明治維新=御一新です。

旧来の政体だけでなく、社会制度全般の変化を促した明治維新は、新しい日本の社会、経済、文化、人間を育んでいきます。

こうした明治の聖代の営みは、その後、大正・昭和の聖代を経て、平成の御代から令和の御代へと至っています。


「近代=西洋との均質化」という「近代化の原則」と向き合うとき、具体的・歴史的情勢や日本の特殊な条件に創造的に適用したり、社会的実践から生まれる歴史的経験に基づいて積極的に発展させる「和魂洋才」という先人が意識し、向き合ったのが「皇国の道」です。

これまで何度も触れていることですが、この「皇国の道」とは歴史上極めて多義的に表された古典的な言葉ではありますが、広く一般には教育勅語にお示しの「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、端的にいえば「皇運扶翼の道」と解されます。

すなわち明治の聖代では、「政治、経済、法体制、文化、宗教、道徳、学問、芸術、風俗・習慣などあらゆる領域での大規模な社会の全般にわたって 皇国の道を洗練」させることを目ざしたのです。

「10月29日」は、こうした 皇国の道に則った日本の「近代」へ向けての新体制への歩みを進めていく国家意思を世界に表明した歴史的な記念日のひとつなのです。

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明治2年(西暦1869)の「10月29日」には、現在の東京大学史料編纂所の前身である国史編輯局が大学校に設置され、また、明治14年(皇紀2541・西暦1881)の今日は、自由党総理に板垣退助、同党副総理に中島信行が就任した日にもなります。

明治リベラルが主導する自由民権運動も各地・各分野で展開されるようになります。

時計の針を令和の御代に合わせますと、戦後史上初めて保守政党が誕生することとなりました。

作家の百田尚樹氏、ジャーナリストの有本香氏らによって結成された日本保守党です。

ようやく保守系有権者に健常な政治的選択肢が誕生したのと同時に、与野党へ失望し切ったすべての有権者にとっても、安心・安全に自らの選択と意思を託せる対象が生み出されたことの意義は計り知れないほど大きいものがあります。

かつて自由民権運動を通じて日本の議会政治の実現を目指した先人と、百田氏らの意気はどこか重なり合うようなところがあります。


そう遠くない時期に、私たち日本国民一人ひとりに誠実な意思が問われ、また、求められる日が訪れます。

過去に生きる祖先、そして未来に生きる子孫らから、現在を生きる私たちは見つめられています。

自らに託され、歴史と結ばれた誠意ある社会政治的選択を誠実に果たしていきましょう。


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「日本の新たなる調和と進歩」を記念する出来事が重なる10月29日ですが、「今日は何の日」というトピックスにちなんで、昨年こちらに掲載したお話(2022年10月29日号)を再掲しながらお届けします。

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私はこれまで《「改革」ではなく「復興」を》と訴え続けてきました。

それは革新系(自由放任主義・新自由主義・リバタリアニズム・グローバリズムの流れをくむ勢力の系統)の主導する「改革」というものに日本の過去と連なる現在と未来の時間的な交わりを見出せないからです。

かねてから私が危惧していた革新強硬派による急進的な改革には「破壊先行型」の姿勢があります。

これまで長い歴史という時間に支えられながら育み、守り続け、積み重ねられてきた物心両面の成果を「時代遅れ」「古臭い」「反動的なしがらみ」などとし、まずはそれらを強力なリーダーシップで破壊し、そこから新たに建設を始め進歩していくという志向を裏付けとした姿勢です。

これは革新系に概ね共通した姿勢で、近年では新自由主義体制への転換を求めた小泉純一郎内閣や安倍晋三内閣などの革新政権、そして大阪維新の会・日本維新の会などの革新政党は、日本の歴史を通じた具体的な条件のもとでの創造的な発展や、新しい経験に基づく批判的検討などを欠いた硬直した思考態度に凝り固まり、過去の成功体験の原則を具体的・歴史的情勢や現在の特殊な条件に創造的に適用したり、社会的実践から生まれる歴史的経験に基づいて積極的に発展させることを怠り、皮相に理解された自由放任主義・新自由主義・リバタリアニズム・グローバリズムの個々の字句にしがみついたり、外国の社会政治的見解を機械的に持ち込んだりする態度が顕著に見られます。

日本の歴史的情勢を無視し、「小さな政府」の原則論をかたくなに守って機械的に適用しようとする革新系はまさに夜警国家の理論、命題を、歴史という時間に支えられた事物をはじめ、条件や環境の有機的なつながりを考慮せずに機械的に現実に適用する態度へ終始してきた感があります。

未だに「国の借金が-」とか「財政破綻が-」とかを強弁する勢力や、「官から民へ」「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」「分配よりも成長を」「身を切る改革を」などといったワードが大好きな革新勢力が声を大きくしようと躍起になっています。

再掲ここまで
※『「日本学会」総本部ブログ 私たちは、日本という国に生まれた。『確実な脱革新の向こう側(日本)へ あらためて向き合いたい、「改革」ではなく「復興」を』(2022年・10月29日号)』

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この時まで私は自由民主党や日本維新の会について「今の政治・社会の制度や組織を変えて、新しい政治・社会をつくっていくことを目指す革新政党」という一般的な分類でお話しをしてきましたが、先のいわゆる“LGBT理解増進法”なる怪奇な悪法を揃って生み出したことで、もはや健全な革新勢力ではなく、日本共産党と横並びとなった反日本的勢力であることが明らかとなりましたので、自民党も維新の会も革新政党には含まれません。

中道革新路線を標榜する国民民主党も政界内で唯一の中道政党として期待されてはいたものの、やはりあの世紀の悪法誕生に加担したことで、単なる反日本的勢力の一政治党派でしかなかったという自らの正体をともにさらしてしまったのでした。


ある意味で先のいわゆる“LGBT理解増進法”は「政治的リトマス試験紙」でもありました。

あらゆる制約・圧力・条件が重なる中で、それでも日本に対する信念を貫き反対するか、それとも裏切って賛成するか、そのいずれかの言動によって、「現下我が国が内外に抱える社会政治的諸問題と脅威に立ち向かうことができるか否かを判定する手掛かりや基準となるもの」が“LGBT理解増進法”であったと、やがて歴史による審判を受けることになるものと私は思っています。

たとえ党議拘束があったとしても、それでも日本に対する歴史的・文化的信念を貫き“LGBT理解増進法”に正々堂々と反対することすらできなかったような連中に、アメリカ・ロシア・支那(中華人民共和国)・南朝鮮(大韓民国)・北朝鮮から迫りくる反日本的侵襲と立ち向かい、あるいは勇敢に抵抗するようなことは絶対にできませんし、北方領土や竹島などの失地回復、尖閣諸島の防衛、拉致された日本人全員の奪還などといった大きな歴史的使命を全うすることなど絶対にできるはずがありません。

たかが“LGBT理解増進法”程度のことに抗えないような連中に、それとはまるで比にならず物の数ではないほど巨大な強敵に立ち向かえるはずなど絶対にできないからです。

日本をアメリカナイズさせようとする革新勢力の主唱する「改革」ひとつにしてもそうです。

きっとこれからも、親米革新+反日本的勢力の混合勢力が、「改革」と称し、国体の変革あるいは否定を目的とする経済構造の改造と、日本人の思想・文化・風俗・習慣の打破による日本の変質化・変態化に興じていくのでしょう。


“進歩的”と称する「改革」各種をメニューに掲げながら・・・。

     ◇

あらためて皆さまに訴えます。

もう「改革」をやめて「復興」へと切り替えていきましょう。

かねてから申し上げている「過去と現在の時間的交わり」という日本人悠久の営みを無視し、あるいは知らず、理解もしていない人物や集団はこうした「歴史の否定」と「過去との分断」を図ろうとする特徴があります。

その先に待っているのは「いま現在だけに、ただポツンと“個体”として存在した個々」の形成する「殺伐とした無機質な世の中」です。

そこにあるのは「功利の力学」の強弱だけがモノを言う刹那的な暮らしの日常だけです。

それがこの30年以上にわたる「改革」なるものが生み出した現実です。


     ◇

もうひとつお話ししておきたいことがあります。

歴史というのは「人間の精神活動の成果が有機的に結合した過去・現在・未来にわたる時間と空間」そのものです。

その歴史を通じて形成してきた物心両面の成果として「数字になる価値」と「数字にならない価値」が存在します。

そのどちらもかけがえのない大切な価値です。

そしてどちらか一方だけに価値を見出したり、一方だけの価値を否定したりすることは極めて危険なことであり、正解ではありません。

ここ20~30年の間に日本は「数字になる価値」のみを追い求めることに偏ってきました。

「数字を生み出さない=無価値あるいは反価値」という思考です。

ところがその偏った思考の果てに、ついに日本は肝心の「数字」を生むことすらできない国へと落ちぶれていきました。

それはそのまま科学技術や産業経済、景気や雇用、福祉や教育、国民生活などへとそのまま悪影響を及ぼして現在に至っています。

その原因はいろいろな立場からの考察や見解によって多様に指摘できると思います。

私はその原因を「歴史の否定」と「過去との分断」を図り、「数字になる価値」だけを追求したことによる作用であると考えます。

その結果として「目先の金儲けと自分の利益、自己の欲望を満たすことだけ」が大きな判断基準となる副作用・副反応が支配的な社会現象となって表れてきたというのが実態ではないでしょうか。


     ◇

以前からこちらでも「世の中は等価交換で成り立っている」と同時に「すべての価値は循環しているもの」という自論・自説をお話しています。

これは

《世の中に存在する「価値」は、それが分岐してそれぞれ「数字になる価値」となろうが「数字にならない価値」となろうが、本質的には相対的にひとまわりして、また元の《誰もが「よい」として承認すべき普遍的な性質》としての「価値」にかえり、それを繰りかえすこと》

をいい、私は「価値の循環論」と名付けています。

この「価値の循環論」を唱える立場からも、これまでの「改革」という趨勢ではなく、「復興」あるいは「再生」という思考での新たな日本の「しなやかな回復と漸次的進歩」へと大きな発想の転換をするべきであると強く思います。

これまで繰り返しお話している《「過去と現在の時間的な交わり」を通じて「未来」を宿していく》というテーマを踏まえて、あらためて皆さまとともに想いを深めていきたいと願っています。


最後に、畏くも 明治天皇の「寄国祝」というお題の御製(明治38年)を謹んで奉戴致します。


うけつぎて まもるもうれし ちはやふる 神のさだめし うらやすの国
口語訳:神代から代々受け継いで、私が今も護り治めることはまことに嬉しいことである。神のおさだめになったこの日本の国を。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



   ◇

上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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