今日、9月24日は、日本人にとって、とても深く、とても複雑な想いが込み上げてくる日のひとつでもあります。

昨年の9月24日には、安倍晋三元総理大臣の「国葬(国葬儀)」を巡る当時の論争を踏まえて、それに特化したお話をお届けしましたが、やはり9月24日に皆さまへお届けし、想いをともにしたいお話は、このトピックスになります。

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※敬称略でまいります。

明治10年(皇紀2537・西暦1877)の今日、西郷隆盛(51歳)・桐野利秋(40歳)等が自害しました。

世にいう「西南の役=西南戦争」です。

明治維新後、廃刀令や徴兵令が実施され、秩禄処分(俸禄の廃止)によって収入のほとんども失った士族らはこれら「武士の特権」を失ったことに対して近代化を進める国に不満を持っていました。

こうした士族を一般に「不平士族」と呼んでいます。

明治10年、鹿児島の不平士族らが西郷隆盛を盛り立てて反乱を起こします。

まさに当時の全日本社会を揺り動かした政治的・社会的動乱がこの「西南の役」で、「西南戦争」ともいいます。

そのころ鹿児島では反体制の動きが強く、征韓論が敗れて帰郷した西郷の開いた私学校が、その中心となりました。

西郷は私学校を中心とする士族に推されて挙兵し、熊本城を攻めました。

しかし、徴兵令による軍隊である国軍(正規軍)の反撃を受け、田原坂をはじめ次々と戦いに敗れ、鹿児島の城山の戦いを最後に西郷軍の指導者は戦死または自決、国に対する最大の反乱は鎮圧されました。


初等科国史の教科書の中から、関連個所を一部抜粋してご紹介します。

※太字は私の手によるものです。

昭和の小学生が学んだ「日本」を、令和に生きる私たちも一緒に学びましょう。


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**初等科国史【第十二 のびゆく日本(にっぽん)】から【二 憲法(けんぽう)と勅語(ちょくご)】より

 明治天皇御製(ぎょせい)

 よきをとり あしきをすてて 外国(とつくに)に おとらぬ国と なすよしもがな

 わが国は、欧米(おうべい)の諸国が、たがいに争(あらそ)ったり、国内で内わもめを起している間に、もののみごとに、維新の大業をなしとげたのであります。これらの国々は、すっかり驚き、ことに、諸大名が喜び勇んで領地を奉還したことを、ふしぎに思いました。それは、日本の国がらが、よくわからなかったからでしょう。ちょうどこのころ、ドイツやイタリアも、新しく生まれかわり、イギリス・フランス・ロシアなどと、張り合うことになりました。海国日本は、こうした国々に負けないように、国の力を養わなければならないと思いました。

 それには、もっと内治や外交(がいこう)を整えることが大切であるとともに、朝鮮や支那と仲よくし、更に、欧米諸国のようすを調べる必要がありました。そこで政府は、廃藩置県(はいはんちけん)がすむと、まず清(しん)と交りを結び、ついで、岩倉具視・木戸孝允らを欧米へやって、国々のようすを視察させ、条約の改正(かいせい)をはからせました。もちろん、昔から関係の深い朝鮮へも、早く使いをやって、王政復古のことをつげ、改めて、交りを結ぼうとしました。

 ところが朝鮮は、そのころ鎖国(さこく)の方針をとっていましたので、これに応じないばかりか、わが国が欧米諸国と交りを開いたことをあなどるといった有様です。そこで、西郷隆盛らは、なおよく朝鮮と談判し、それでもきかなければ、これを討とうと主張(しゅちょう)しました。そこへ具視らが帰って、内治を整えることが急務であると説(と)き、政府の方針も、内治を先にすることにきまりました。明治六年のことであります。

 隆盛は、官を退(しりぞ)いて鹿児島(かごしま)へ帰り、青年のために学校を建てて、ひたすら教育にはげみました。ところで、その青年たちが、政府のやり方に不平をいだき、明治十年、隆盛をおし立てて、兵を挙げました。朝廷では、有栖川宮熾仁親王を征討総督とし、諸軍を率いてこのさわぎをおしずめさせになりました。世に、これを西南(せいなん)の役(えき)といいます。こうした思いがけないことが起ったので、内治を整えることも、なかなか容易なことではありませんでした。

 明治天皇は、さきに御誓文によって、国民に政治をたすけさせる御方針をお示しになりました。このありがたい思し召しをいただいて、政府は、その仕組みをどうするかにつき苦心(くしん)しました。内治では、これが、いちばん大きな問題でありました。

 そこで政府は、明治八年、地方官会議を東京に開き、十二年には、府・県会を設(もう)け、始めて民間から議員を選(えら)び出させ、国民の政治にあずかる糸口を開きました。やがて十四年、かしこくも天皇は、明治二十三年を期し、国会をお開きになる旨を、仰せ出されました。国民は、御恵みに感激して、それぞれ務(つと)めにいそしみました。

 天皇は、皇祖皇宗の御(ご)遺訓に基づき、国をお統べになる根本のおきてを定めようと、かねてお考えになり、政府に憲法制定(せいてい)の準備をお命じになりました。明治十五年、伊藤博文(いとうひろぶみ)は、仰せを受けて憲法の取調べに当り、やがて、皇室典範(こうしつてんぱん)と帝国憲法との起草(きそう)に取りかかって、明治二十一年に、草案を作りあげました。天皇は、枢密院(すうみついん)に、草案の審議(しんぎ)をお命じになり、終始(しゅうし)会議に臨御(りんぎょ) あらせられ、したしく審議をお統べになりました。かくて翌二十二年に、御みずから、皇室典範及び大日本帝国憲法をお定めになり、めでたい紀元節の日に、憲法を御発布(ごはっぷ)になりました。

 この日、天皇は、まず皇祖皇宗に、したしく典憲制定の御(おん)旨をおつげになったのち、皇后とともに、宮中正殿(せいでん)にお出ましになり、皇族・大臣、外国の使節を始め、文武百官・府県会議長をお召しになって、おごそかに式をお挙げになりました。盛儀が終ると、青山練兵場の観兵式に臨御あらせられました。民草は、御(おん)道筋を埋めて、大御代の御(み)栄えをことほぎ、身にあまる光栄に打ちふるえて、ただ感涙にむせぶばかりでした。奉祝(ほうしゅく) の声は、山を越え野を渡って、津(つ)々浦(うら)々に満ち満ちたのであります。

 このめでたい日、おそれ多くも天皇は、西郷隆盛の罪をゆるして正三位をお授けになったほか、佐久間象山(さくまぞうざん)・吉田松陰(よしだしょういん)らの志士にもそれぞれ位をたまわりました。


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「西南の役には道理がある」という意見は今も根強く、佐賀の乱や神風連の乱などと並んで「武士道・大和魂の道理」としての「人の魂に触れる造反」といった声もよく聞きます。

しかし、私は「大きな災難をもたらした内乱」であると思っています。

明らかに重大な歴史的誤りであって「優れた指導力で明治維新を成功させた代表的人物が間違って引き起こした内乱」であると私は思っています。
※もちろん「日本学会」の公式見解でもなければ、各地・各分野の日本学会員を代表する意見ではありません。

以後、反政府運動は武力を用いない自由民権運動へと変わっていきましたが、果たしてこうした歴史的努力の結実たるところの立憲君主制への道を歩むうえで、この「西南の役」は暗い影をもたらすことになります。

「西南の役」に代表される不平士族の反乱は、畏き五箇条の御誓文にお示しの通り、「多数の国民が政治に参加し、社会の秩序と安定をつくろうとする原理」である大政翼賛=日本デモクラシーと、「人間が生まれながらにもち、人間生活を営むうえでの基礎となる“権利”」である情誼(=欧米の「人権」に相当)などを、文字通り政治的に実現する取り組みを著しく停滞させる結果を生み出すことになったのです。

近代学制の実現によって広く一般大衆に「教養」をもたらす結果によって、知性と教養に「身分」は全く不要となった世の中であれば、代議制による議会政治を原理通り実現できるはずなのに、この「西南の役」はその可能性すら「自ら放棄」するかのような結果をもたらしてしまいました。

「いつ、またこのような大きな災難や動乱が起こるかもしれない」という不安と恐怖のトラウマを残す結果となったからです。

こうした「クーデター」や「テロ」によって自らの社会政治的願望を果たそうとする言動は、時を経て「5・15事件」や「2・26事件」へとつながる本質的要素・原因を日本社会に内在させることとなりました。


皮肉なことに、五箇条の御誓文の御聖旨を日本社会が実現できたかのように見える時代は、昭和の聖代における戦後まで待たねばならなかったというわけです。

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あくまで私個人としての我意・我見となりますが、「西南の役」を含めた士族の反乱は当の「武士」にとっても大いなる幻影であり、虚妄でしかなかったばかりか、旧来の士農工商といった「四民」が名実ともに「日本」という「国家」の「国民」となろうと「近代」への新しい日常と歩みを進めた社会をずたずたに引き裂こうとした悲劇的な動乱だった、とも思えるのです。

こうした士族の反乱は重大な誤りであるとは思えるのですが、私はその中に込められた「想い」や「矜持」までをも否定するほど傲慢な人間ではありません。

西郷隆盛も自分の起こすことを、おそらくは重大な誤りであることを一番思い知っていたはずです。

しかし、西郷隆盛はそんな誤りを誰よりもわかっていながら、「西南の役」の首領となります。

その西郷隆盛の想いは如何ばかりであったのか・・・本当に言葉を失います。

当時の「元武士」であった士族の大半は、「近代」という新しい時代を受け入れ、新しい時代に順応しようと懸命に努力を積み重ねていきました。

そうした「元武士」も、士族の反乱への想いは同じくしつつも、それでも新しい日常と時代に生きていこうとしました。

断髪令を受け入れ、ちょんまげ頭をザンギリ頭へ変えました。

レンガ造りの洋風建築を建ち並ばせ、舗装された道路に鉄道馬車や人力車を走らせました。

ガス灯やランプが使われ、洋服を着て帽子をかぶり、靴を履きました。

武士の魂であり誇りでもあった刀を手放す代わりに、懐中時計やこうもり傘を持つことを紳士の誇りとして、牛肉・牛乳・パン・西洋料理などを食生活に採り入れました。

当時の「元武士=士族」は先祖代々、そして自らも親しんだ日常が消えゆくひとときを受け入れながら営んでいくことを決意し、新しい時代を必死に生きてゆくのでした。

本当に「先祖代々の生活様式」を激変させる決断と苦悩は、計り知れない苦闘や葛藤があったことでしょう。

しかし、当時の日本人は一生懸命に「新しい日常」を育んでいったのです。

なぜならそれでも、天佑を保有され、万世一系の 皇祚を践めさせ給う 天皇陛下のお治めになる御代を祖先とともに生きていることに他ならないという自信と自覚をみんなが共有していたからです。

この「日本のアイデンティティ」は、社会秩序と個人の自我を支えている基本的価値を根本的に形成する日本人の思想・行動・意識のエッセンスでもあり、同時に「近代=西洋・欧米との均質化」という新しい時代においても、時々の非常の世局に際して古来からの忠誠勇武なる民族性・国民性として発揮され、歴史の中に輝きました。

それは明治の聖代より、大正の聖代、昭和の聖代へと受け継がれ、日本人は大東亜戦争の滅亡的な敗戦によって崩壊寸前となった国を立て直し、絶望的な戦後復興から奇跡の高度成長へ、「世界第二位の経済大国における一億総中流社会」という「人類史の奇跡」を実現できたのです。

令和の御代に生きる私たちにとって「明治・大正・昭和の日本人なら、この出来事にどう向き合い、どのように考え、どのように行動しただろうか?」というのが「戦後現代人にとっての百科全書的解答」を導き出すキーワードであるのだということを、あらためて皆さまにお伝えしたいと思います。


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西南の役によって非業の最期を遂げた西郷隆盛ですが、当時から一般庶民にまで広く愛された人物でした。

その人望・人徳たるは古今を通じて身分の上下を問わず世の人々から慕われ敬われる歴史上傑出した偉人のひとりです。

そんな稀有な偉人をして、今日、無念の最後を迎えることになりました。

最後の言葉は「もう、ここらでよか」であったそうです。

誰からも慕われ、誰からも愛された西郷隆盛は、こういう言葉も残しています。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。去れども个様の人は、凡俗の眼には、見得られぬぞと申さるるに付、孟子に『天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば、民と之に由り、志を得ざれば、独り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賎も移すこと能はず、威武も屈すること能はず』と云ひしは、今仰せられし如きの、人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは、彼の気象は出ぬ也。

(西郷南洲翁遺訓集第三十ケ条)

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欧米列強が支配する世界の中で、ついに明治22年(皇紀2549・西暦1889)2月11日、日本が晴れて近代的な立憲君主国となったこの日。

畏くも 神武天皇ご即位を記念し肇国(建国)を奉祝する紀元節の日に、皇室典範の御制定、そして大日本帝国憲法の御発布を賜った、このめでたい日に、畏くも 明治天皇には、西郷隆盛の罪をお赦しあそばされ、正三位をお授けになられました。

このことで、西郷隆盛は救われ、そして何もかもが報われたのだということ、そしていつくしみ深き大御心を拝し奉りますと、本当に胸があつくなります。


ここで、今に伝わる不思議なお話をあらためてご紹介します。

この「西南の役」があった明治10年9月、火星が大接近し明るく輝きました。

人々はこの赤い星の中に「西郷隆盛を見た」と証言しています。

そのため人々はこの不思議な赤い星を「西郷星(さいごうぼし)」と呼びました。


なお、火星の近くにあった土星を西郷の参謀桐野利秋の名に因んで「桐野星」と呼んでいます。

私はこの「西郷星」の話を信じます。

「火星」か「土星」か、その真相はどうであれ、「西郷星」や「桐野星」に私は想いを寄せたいと思っています。

歴史というのは本当に深くて重いです。

そうした「歴史」という「祖先からの知的意思」への想いを一層深めていくべき大切さを、あらためて皆さまとともに噛みしめたいと願っています。

最後に、畏くも 昭憲皇太后の「農」といういつくしみ深きお題の御歌(明治35年)を謹んで奉戴致します。


田にはたに いでぬ日もなき さと人の 身の労ぞ おもひやらるる
口語訳:雨の日も風の日も、田畑に出て働かない日のない農民たちの、労苦はさぞかし大変なことだと思いやられます。
『明治神宮編・発行『新版 明治の聖代』(平成27年11月25日第五刷・明治神宮)』



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上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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