来たる大東亜戦争終戦の日を前に、報道各社は毎年恒例の「戦争と歴史」をテーマにした特集を組んでいます。

 

こちらでは明日14日、そして明後日15日に取り上げるとして、今日は現下一大トピックスとなっている「政治と宗教」、「政教分離」を取り上げます。

 

安倍元首相暗殺事件で再び注目を浴びる狂信的な反日カルト教団・統一教会(世界平和統一家庭連合)。

現在「政治と宗教」を巡る国民的議論が本格的に醸し出されようとしています。

この国民的議論はよほどのことがない限り収まりがつかず、常に選挙・政党・議員らへの疑惑や疑念となり続けることでしょう。

同時に、新聞・ラジオ・テレビといったオールドメディアに対する評価にも大きな影響を与えることにもなり、「政治と宗教」はもちろんのこと、「マスコミと宗教」という新たなテーマを生み出すことにもなりました。

すでに一部オールドメディアのみならず週刊誌やネットニュースでも統一教会関連の報道が更新され続けており、30年以上にわたって日本社会に深刻な悪影響を与え続けた反日カルト宗教の怪奇な実態と、その社会政治的存在感の規模についてもこれからどんどん明るみになっていくことでしょう。

この議論は、宗教法人“創価学会”や“幸福の科学”などといった「積極的に政治へコミットすることを図る教団」へと広がることにもなっていきます。

ここでいわゆる“日本国憲法”を見てみます。

◇第20条〔信教の自由、政教分離〕
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

◇第89条〔公の財産の支出・利用提供の制限〕
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

この第20条と第89条では、何人に対してもどんな宗教を信じるのも信じないのも自由であること(信教の自由)を保障するために、政治と宗教が相互に介入し合うことを禁止する厳格な政教分離の原則を採用し、国や地方公共団体が特定の宗教に特権を与えたり、財政的援助を供与したり、自ら宗教的活動を行なったりすることを禁止する事項が規定されています。

すでに実際上は「空文化」していることがよくお分かりいただけると思います。

政権与党として連立政権を担う公明党は宗教法人“創価学会”を母体とする宗教政党であり、所属議員を含めその支持者のほとんどが創価学会信者であることは公知の事実ですし、創価信者らの熱心な選挙運動についても、今やどなたでもよくご存じのはずです。

また宗教法人“幸福の科学”も「幸福実現党」なる政治結社をつくり、幸福の科学信者らを中心に国政・地方を問わず積極的に選挙へ出馬していることも知られています。

「政教分離」を巡ってよくトピックスとなるのがやはり公明党で、池上彰氏が選挙特番の際に当選した公明党議員に対して「あなたは創価学会信者ですか?」とストレートな質問を突き付けるシーンが話題になったりもしました。

一般に選挙とは「国民有権者の政治参加」と解されます。

参政権と呼ばれるものですが、日本国民たるもの等しく保証された参政権には、いかなる場合にも人種、宗教、性別、門地または身分により差別的取り扱いを受けることはない平等性の原則があります。

したがって、「特定の教祖・教義・教団」に帰属している日本国民であっても有権者たる資格を奪われません。

その上で「政教分離」という揺るがない厳格な原理を採用しているわけです。

ここで重要なポイントは「選挙を通じた宗教団体の介入」についてです。

「特定の教祖・教義・教団」に属する日本国民が組織的あるいは集団的に特定の政党や候補者を支援することは一般の参政権を行使することであり、「政教分離」の原則に反しないものとされます。

政党や議員にとって、選挙を通じた支援はまさに命綱です。

自らが掲げる理念や政策に賛同し、汗を流して無償の応援に勤しんでくれる人や集団は、政党や議員にとっては「恩義」の対象になります。

そうした人や集団が「特定の教祖・教義・教団」であっても、政党や議員にとっては「恩義」の対象です。
※安倍元首相をはじめ、与党や野党の議員、各地の知事などが特定の教団のイベントに祝電やビデオメッセージを送り、講演するのもそういう「恩義」があるからです。

自由民主党にとってそれは統一教会であり、公明党にとっては“創価学会”であるというだけです。

今回、統一教会という反日カルト教団が選挙や政治献金を通じて国・地方の政界に深く浸潤している現実が報じられていますが、「信教の自由」と「政教分離」という憲法上の隙をついた「法の網を潜って蔓延る不法行為」とも思しき事実であるともいえます。

「政治の透明性」「ガラス張りの政治」という、今やすっかり使い古された陳腐なスローガンがありますが、今こそ「選挙の透明性」「ガラス張りの選挙」を実現するために公職選挙法を改正して「選挙に関係する人や団体をすべて公開すること」が重要であると考えます。

「政教分離」の原則も含めて合法的な選挙支援であるのなら、「やましいこと」は一切無いはずです。

同時に、私たち一般有権者にとって、選挙の際に各政党や候補者を支持・支援する組織・団体が何であるかを知ることができるのは、自身の投票行動における大きな判断基準にもなります。

ここから、たとえ話をします。

「とある宗教団体」が信者を構成員とする政治団体を結成します。

その政治団体が選挙の結果、公職選挙法に定める国政政党の要件を満たし、政党交付金を受ける資格を有する正規の政党になったとします。

その政党が与党=政権を担当している政党(政府党・政権党)になる、あるいはその与党と連立を組むとします。

その段階で「特定の教祖・教義・教団を母体とする政治党派が政権を担当する」ということになります。

そうすると当該与党の母体となる宗教団体は実際上、「政治上の権力を行使する」という立場になります。

また当該与党の所属議員は母体となる宗教団体の信者である関係から、「個人的な信仰」を理由に入信先の教団へ献金をすることにもなります。

政党交付金も議員の歳費等もすべて公金である関係から、上掲第20条と第89条に定める「政教分離」および「公の財産の支出・利用提供の制限」も結果的にはすべてがなし崩しになります。

これは野党=政権の座についていない政党(在野党)であっても同じです。

集団的自衛権行使を巡る論争や自衛隊の存在を巡る論争においても、その争点は「憲法9条に違反していないか否か」の合憲性・違憲性の議論であり、その際も、様々な憲法学説や解釈論などが入り乱れたりもしますが、この「政治と宗教」を巡る議論でも「第20条と第89条に違反していないか否か」の合憲性・違憲性の議論とするべきで、上記のたとえ話がすべて合憲であるとするのなら、“改憲”を成すまでもなく「個別的・集団的を問わずすべての自衛権行使は合憲であり、よってその執行機関である自衛隊も当然として合憲である」とすっきり結論がつくはずです。

私個人の意見ですが、原理主義的な「政教分離」は事実上不可能であると考えています。

例えばアメリカでは、合衆国大統領の就任宣誓式はキリスト教(特にプロテスタンティズム)を象徴する“聖書”に手を置いて宣誓し、連邦議会や州議会においても開院式の際には牧師の祈祷が行われ、公的な儀式の際にもやはりキリスト教を象徴する様式での宣誓・儀礼が行われるのが珍しくありません。

それはアメリカ合衆国の建国以来の歴史的伝統としての生活様式、アメリカ人の精神的生活にかかわるものとしてキリスト教が普遍的に認知されているからです。

そんなアメリカも合衆国憲法で「政教分離」の原則を採用しているのです。

その意味で、私は《原理主義的な「政教分離」は事実上不可能である》といっているのです。

なぜなら日本には歴史的伝統に則った年中行事が日本人の一般的な生活様式を形成しているからです。

神社のお祭りやお寺の法事などをはじめ、四季折々の年中行事と政治が一切無縁であることは絶対に不可能です。

ここで「政教分離」というトピックスを踏まえて「祭政一致」というお話をします。

私は、どんな宗教を信じるのも信じないのも自由である「信教の自由」を保障するため、政治と「特定の教祖・教義・教団」が相互に介入し合うことを禁止し、国や地方公共団体が「特定の教祖・教義・教団」に特権を与えたり、財政的援助を供与したり、自ら「特定の教祖・教義・教団」の活動を行なったりすることを禁止する「政教分離」という原則に賛同します。

しかし、一方で日本には神祇の祭祀と国家の政治とが一致するという歴史的伝統があります。

「祭政一致」といわれる日本の伝統文化です。

この場合、「政教分離の原則に反するのではないか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「政教分離」という場合の宗教というのは、まさに「特定の教祖・教義・教団」を主な対象とするものと解するのが妥当です。

要するに「国家の政治と特定の教祖・教義・教団とを分け離すこと」が主目的であるということです。

歴史的事実として神社やお祭りに代表される「神社神道」には「教祖」がいません。

ゆえに「神社神道」には「教義」が存在せず、結果として「教団」が成立しません。
※あるのは古事記や日本書紀などの古典や各地の民話、各時代の文人・学者らの「解釈」や学説があるくらいのものです。

あくまで日本人が歴史という時間と共に形成してきた物心両面の成果が「神社神道」です。
※「神道」のうち、神社神道は「宗教」とはいえず、教派神道が「宗教」たる構成要件を満たしているといえます。

そのため、生活形成の様式と内容とを含む神祇の祭祀は、日本人の精神的生活にかかわるもの=日本文化として、現在まで私たちのライフスタイル一般に有機的に結合した有史以来の文化となり続けています。

その意味で、日本は「祭政一致」という伝統文化を共にする日本人によって構成される国に他ならないわけですから、一般論としての「政教分離」という話とは切り離して理解し、認知するべきであると考えます。

なぜなら国や地方の公式行事で神式の祭礼・儀式が行われたとしても、「何処の教祖・教義・教団へ政治が加わる」という現実的な意味は一切ないからです。

以前こちらでも《私は「無宗教」だ》とし、それは《特定の教祖・特定の教義・特定の教団には一切属さないという意味での「無宗教」だ》とお話をしましたが、そんな私も祝祭日を初め、四季折々の年中行事には神社にお参りへ行きますし、お寺にも足を運んだりします。

以前にもお話したことがありますが、私自身は世の中に存在するすべての宗教に対してはかなり批判的で否定的な立場の人間なのですが、「宗教的なもの」あるいは「神秘的なもの」までをも全否定するほど傲慢ではありません。

「宗教的」とも「神秘的」とも、あるいは「精神的」ともいう「わけのわからないもの」を信用できないような人物は、もはや「人間」ではないとも思っています。

「わけのわからないもの」を抱えているからこそ人は人間として生きているのだし、ゆえに人間は文化を育み、科学や芸術などを生み出したりもするわけです。

私は私自身の中に曰く言い難し「“宗教的”の如きもの」を抱えています。

それで生きていくのです。

きっと皆さまも同じだと思います。

それをどこぞの「教祖」やら、「教義」やら、「教団」やらといったものでやられると、それを否定してしまうというだけの話です。


すでにお話している通り、私個人は「科学の頭と文学の心」という信念がありますが、これだってひとつの「信仰」だといえるかもしれません。

明治元年(皇紀2528・西暦1868)の「3月15日」に、世にいう「五榜の掲示」が布告されています。
まさに「日本人永遠の掟」というものなのですが、その中で、永世の定法とするものに以下の内容があります。

第三榜
 日 切支丹邪宗門の儀は、堅く御制禁たり。若し不審なる者これ有るは其の筋の役所へ申出すべし。御褒美下さるべき事。


ここでは、日本の秩序や道徳などから大きく逸脱している信仰の禁止を謳っており、日本の秩序に反する信仰、日本のルール(文化・法律・規範・マナーなど)を侵して他人や社会に迷惑や損害を与える宗教を禁じており、それは永世の定法=永久の決まりのひとつとしています。

「日本人永遠の誓い」である五箇条の御誓文と対になる「五榜の掲示」ですが、いずれも「現代日本の国是」ともいうべきものですから、現在・未来に生きる日本人にとってまさに「永世の誓いと掟」です。

統一教会をはじめとする類似宗教(新興宗教)の中には、反日本的信仰を行う教団も珍しくありません。


こうした反日教団が選挙等を通じて政治にアクセスし、コミットを図ることは、日本と日本人にとって有害以外ありません。


「五榜の掲示」に示された「日本人永遠の掟」が、どれだけエッセンシャルに重要な戒めであり、ルールであるのかをあらためて思い知らされるかのような気がします。

戦後社会の深刻な暗部ともいえる「政治と宗教」という現実は、まさに戦後現代を象徴する一大論争であり、いよいよ「今そこにある危機」と並んで、その危機と連結した「不都合な真実」の一端を明かすことになるでしょう。

本当に世の中が大きく変わる歴史的胎動を見せ始めています。
この史的分岐点に際会できたことはまさに千載一遇のチャンスともいえます。


《日本人の手に日本を取り戻す》
《日本人の日本人による日本人のための政治を実現する》


オールドメディア=新聞・ラジオ・テレビがどこまで踏み込んで真相追及できるのか大いに疑問がありますが、ネット・SNSを通じて統一教会を含めた「特定の教祖・教義・教団」と政党・議員らの闇のつながりへの究明と糾弾の動きを決して緩めることなく、恒常的に展開し続けていきましょう。

「敵」は、旧来通り「ブーム」が去り、国民大衆が「無関心」となるときを待っています。
そんな「敵」の思惑通りにはいかないことを、日本人が「良心」として今こそ見せつけるときです。


今回の統一教会と政界を巡る社会政治的論争は、そうした「日本=国体」というエッセンシャルなテーマへとつながる「胎動」であり、それこそが未来へ向けて「日本人」が生まれるための営みの一端でもあるのだということを、皆さまと一緒に想いと考えを深め合いたいと思います。

上御一人に対し奉り日夜それぞれの立場に於て奉公の誠をいたす。
我等は畏みて大御心を奉体し、和衷協力以て悠久の臣道を全うせんことを誓いまつる。

国体を明徴にし、国民精神を涵養振作するという一点で手をつなぎ、肇国の由来を詳らかにし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、もって国民の自覚と努力とを促すため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めましょう。

「国体の本義、いまこそ旬」
「国体の本義、臣民の道、明日をつむぎ未来をひらく」
「失った日本を数えるな、残された日本を最大限生かせ」
「新しい日本の世紀、紀元2700年へ!」
想いを共に

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