キリスト教徒は、食前に神への感謝を祈りますが、そこには自分の血肉となってくれる生き物に対する感謝の気持ちはありません。
家畜は神が人間に食料として与えてくれた生き物に過ぎないからであって、神に感謝する事はあっても、屠殺される動物への思いは全くありません。
マイミクさんの情報によると映画「にくのひと」 は肉の解体現場の映像とそこで働く人々の苦悩や笑顔が描かれているそうです。
以下転載
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http://www.jinken.ne.jp/buraku/henkutsu06/03.html
頭がいい人に限って屠場のことやなくて「差別はどうなん?」と 聞いてくるんですよ。
事前に取材はしてあったんで「当人たちはあっけらかんとしてます よ」と言うたら「そんなことないやろー」って。 はじめから差別はあるもんやっていう見方しかしてなかった。
――部落を笑いのネタにする若い職人とか、部落、部落言うから差別が広がるという、いわゆる寝た子を起こすな論を力説する元職人とか、いろんな人が出てきてたね。
今までは差別されて悲惨だというのを声高に叫ぶような作品ばっかだったんで、部落の中でもああいうふうに考えが分裂してる、いろんな考えを持っている人がいるっていうのを明確に描きたかったんです。
一部転載終わり
一方、『命の食べ方』というドキュメンタリー映画では極めてシステマティックに動物が食肉になっていく過程が描かれています。
私は観る勇気がないのですが、そこには感情が存在しないような印象を受けました。
これはもう死生観の違いとしか思えません。
日本人は全てのものに神が宿るという考え方を持っており、その中には当然動物の神様がいまして、神の使者とみなされる動物は神使と呼ばれるそうです。
日本昔話にも『花咲かじいさん』『桃太郎』など犬が登場する話が多数あります。
【神使について】
神使(しんし)は、神道において神の使者(使い)と考えられる特定の動物のことである。「神の使い」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。
特定の動物が神の意志を伝えるという説話は日本神話の中にも見られる。日本書紀の景行天皇記には、伊吹山の荒神(あらぶるかみ)が大蛇に化身して日本武尊の前に現れたのを、尊は「
大蛇は荒神の使いだろう」と言ったという記述がある。紀の皇極天皇記には、猿を「伊勢大神の使」として、その声で吉凶を判じたという記述がある。
時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のよ
うに、本来は神使であるものが神そのものとして祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。
【以上ウィキペディアより抜粋】
キリスト教では人間の食料として神から与えられたものとされている牛は、日本では昔から農家にとって命綱と言える大切な家畜でした。
そのため、村や部落ごとに塚や祠を設けて牛神を祭り、牛の無病息災を祈願する為にそこに参る時には牛も一緒に連れて行くという風習がありました。
そういう日本の文化は西洋化でどんどん廃れていきました。
また、「幸せになる犬との暮らし」という本によると、仏教には輪廻転生という思想があり、動物を虐待するとその動物に生まれ変わるかもしれないという思想があるので、動物虐待はタブーとされていました。
人間だけが特別とするキリスト教とは明らかに違うのです。
司馬遼太郎の「歴史を紀行する」という本には明治の初期に日本に滞在していたアメリカ人学者の日記が紹介されていますが、その学者は東京に放し飼いにされている犬たちが人間を警戒心を持っていない事に驚いています。
当時のアメリカの子供達は犬を見れば石をぶつけて遊ぶ。その為犬は警戒心が身についていて、知らない人のそばには近づいてこない。石を拾う動作をするだけで逃げるというのです。
ところが、日本では犬のそばに石を投げても自分に危害が加えられるとも思わず、逃げようともしないで、無邪気に投げた相手を見つめているというのです。
この話は目からウロコでした。
そもそも闘牛などという残酷なショーやスポーツとしてのキツネ狩りが発展してきたのはキリスト教徒は神から与えられた動物はどのように扱ってもいいと考えているからでしょう。
そういう人達が鯨は頭がいいから殺すなと言っているわけです。
欧米は動物愛護が進んでいると言われていますが、こういう背景があるからこそ、動物愛護に力を入れなければならなかったのかもしれません。