甥っ子がミャンマーに出張したとのLineがきたので、私の微かなミャンマー(1988年にミャンマー連邦)との関わりを思い出しました。きっかけとなったのは、色平哲郎先生(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)の記事の抜粋です
https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/202103/569677.html
一部抜粋すると、
京都大学医学部の学生だったころ、スー・チーさんが京都に滞在していた。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9カ月間、当時40歳だったスー・チーさんは京都大学東南アジア研究センターに客員研究員として留学していた。研究テーマはビルマ(ミャンマーの旧称)独立運動の歴史をたどること。スー・チーさんの実父は、「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウン・サン将軍である。物心つく前に暗殺された父と縁の深かった日本で、旧軍関係者への聞き取りや、資料調査をしておられた。
そのことを私たち京大生に教えてくれたのは、医学部の病理学教授だった故濱島義博先生だった。
濱島先生は、私の直属の上司でもありました。1974ごろから病理学教室に出入りしていました(今でいうところの基礎配属ですが、当時はその制度はありませんでした。クラブ活動のノリでした)。濱島先生は、1960年代の半ばから、京都大学医学部チームを率いて、鎖国中だったビルマの第2の都市マンダレーにしばしば出張されて、ビルマの医学の近代化に勤めておられました。
略歴を紹介した記事(日本アレルギー学会機関誌アレルギーの追悼記事、筆者は私です)を添付します。