左右(とにかく)なんとか過ごしてはきた 大阪赤十字病院皮膚科部長編
山田瑞穗
皮膚病診療:Vol.24, No.10;「私の歩んだ道」1170〜1174, 協和企画(2002)
気が狂ったか?
短期間ならなんとかなるだろうと,満員電車で往復4時間という過酷な通勤に耐えて大阪まで通った.当時,大学では研究はもちろん,勉強会などもすべてストップしていたので,天理病院の渡辺医長,神戸市民病院の宋医長と相談し,交代で臨床の勉強会を企画したが,結局,私の大阪赤十字病院で毎月実施することになり,計70回余,この3病院,京大病院のほかからも大勢の若い皮膚科医が症例,標本,スライドなどを持ち寄って参加し,賑やかに実りの多い勉強会が行われた.
大学病院では構成員の専門性が重視され,すべての疾患に目を向けることは不可能であるが,この病院では部長である私がすべてを統括していたので,おそらく大学よりも豊富ないろいろな症例のすべてに目が届き,もちろん,責任も重大であったが,たいへん勉強になった.
前から電顕には関心があったが,京大では病院に1台しかない電顕の皮膚科の割り当てが減るので,邪魔をしないように遠慮していた.この病院には電子顕微鏡があるが,病理の専門家以外,あまり利用されていないことがわかったので,早速,この電子顕微鏡を使わせてもらうこととなり,京大病理学教室の電顕テクニシャンの第一人者藤岡氏に出張指導をしてもらう話がまとまった.40歳を過ぎて,一から新しいテクニックを,しかも電顕には最悪の気候時に始めるということで,大方の批判は気が狂ったのではないかということであった.包理など標本をつくるのは一緒に習い始めた女医の吉永さんのほうがずっと上手なので一任し,私は機械の操作がなんとかできるようになると,多数症例についての観察,撮影,現像,スライドづくりなどに没頭した.一方,まだ免疫学的意義の確立していなかった薬疹の原因,その他の抗原刺激によるリンパ球幼若化現象についても検討していたが,PHAによる幼若化現象リンパ球の微細構造の観察をさらに進めて(すでに手掛けられていた上皮系,色素細胞系科の電顕的研究の後追いは空しいので)真皮について観察はしてみてはどうかと考えたが,真皮には線維芽細胞,組織球,細網細胞,リンパ球など種々の酒類の細胞があり,同定が不可能なので誰も手をつけないのだと聞かされた.しかし,敢えて真皮の浸潤細胞の電顕的観察に,また,内科はもちろん病理の人たちにもT細胞リンパ腫に関する認識の過ちから,菌状息肉症,Sezary症候群の独立性が危うくなっていたこともあり,究極的には皮膚のリンフォーマの研究に発展した.
医師,看護婦のストライキに嫌気がさし,この病院をなんとか脱出したいと考えていた時,各県に1医大という構想が発展して新設医大ラッシュが始まり,奇しくもその網の一端に引っ掛かって浜松医大の教授に内定した.
留学の経験がまったくないので,有給休暇のすべてをまとめてとらせて欲しいと無理をいい,1ヵ月あまり,アメリカの大学,学会を歴訪できたのは幸いであった.一方,講義のためのスライド,組織,医局員の勉強のための医学雑誌のバックナンバー,教本の整備など,新しい教室づくりの準備も結構たいへんであった.
浜松医科大学皮膚科HPからhttps://hama-med-derma.jp/about/
古川記:大阪日赤のカンファは勉強になるという話で、京都大学から鶴橋(大阪日赤)まで何人かの先生が参加されたとのことです。山田先生の記述の如くです。私は1979年に研修いたしましたが、山田先生は浜松医科大学に赴任されてました。カンファレンスが行われた部屋はさして広くもなく、さぞかし活発で熱のこもった議論が行われたのだろうと思いました。
http://pop-a.net/mizuho/tonikaku.html
