忘れつつあるので2011.3.11のことを記録にとどめておきます | FF残日録のブログ

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広島県出身。各地で皮膚科の医療に関係してきました。2017年から,高槻の病院に勤めてます。過去の文書や今の心のうちを,終活兼ねて記して行こうと思ってます。2023/1/8に、dermadreamからFF残日録のブログに名称変更。

3年前下記の題で、和歌山県立医大皮膚科 京大皮膚科の同門会誌に木したので、転載しておきます。写真は省略してます

 

忘れつつあるので2011.3.11のことを記録にとどめておきます

日本赤十字社 高槻赤十字病院 古川福実

 

1)日本赤十字和歌山医療センターの部

当日(2011年)のスケジュール表を参考にすると、出張中の和歌山県立医大附属病院長の代わりに、副院長として新装なった日本赤十字和歌山医療センターの内覧会に10時からでていました。立派なもんだと感心していました。その後、日赤の講堂で記念式典、場所をかえて和歌山駅のホテルグランビア和歌山でパーティーがあったので、出席。

CTL:東日本大震災:図2 和歌山日赤 披露CIMG1716.jpgCTL:東日本大震災:図3 和歌山日赤 披露CIMG1672.jpg

内覧会 仁坂知事、林副院長    百井院長の写真禁止??のポーズ

 

15時頃、至急附属病院にかえれとの事務からの電話。地震があり津波の心配もある、とのこと。実は14:46に 三陸沖でマグニチュード8.8(震度7)の地震が発生し「東北地方で10m以上の津波の恐れ」があり「太平洋沿岸に津波が発生する恐れ」の情報がもたらされた。えらいこっちゃと、タクシーで帰学。お酒ものんでいなかったので、大丈夫と自己診断。

 

2)和歌山県立医大院内災害対策本部

15:30ごろ「和歌山(県)に2mの津波が16:15〜16:20に到達の予想」との情報。

15:40ごろ院内災害対策本部の設置要請。代理ながら、古川が総指揮者なので時々刻々責任の重さを痛感いたしました。

病院三階の会議室を本部としたが、ホワイトボードと机椅子のみ有り。全く情報が取れないことがわかり、急遽テレビを院長室から搬入して、パソコン二台搬入しLANと接続。対策本部らしくなってきた。(下記の二枚の写真は17:18のもので、古川のガラケーで撮影)

CTL:東日本大震災:2011031117180000.jpgCTL:東日本大震災:2011031117190000.jpg

 

15:55 病院棟一階の院内滞在者の2階以上への指示を発令。救急車は一階に着くので、機能不全になることも判明した。

ERの二次三次救急診療を中止(16:30に各消防本部に受け入れ不可をFAX)。

一般救急は二階総合受付で電話対応に切り替え.

一階ドア開口部の土嚢の設置準備。

災害対策本部を設置し、県庁、ネット、テレビから情報収集を開始。

 出席:副院長 古川

    井箟産婦人科教授

    木村看護部長

    中 准教授(救急集中治療部)

    根木准教授(腎臓内科・血液浄化センター)

    脇田局長・塩崎次長

    総務課長・企画課長・病院課長・

    経理課長・災害担当週番班11名・

    特別班(施設管理課・栄養)若干名・他(職名は当時)

 

その後,情報が錯綜したが、「和歌山(県)に2mの津波が16:15〜16:20に到達の予想」は外れ、詳細な情報が集まるにつれて和歌山市への津波到達時刻が17:20と判明。病院の和歌川あたりでは、その予兆もはっきりせず、かえって不安が増す。

事務方に、屋上で肉眼での津波監視を依頼したが、識別できるような潮位の変化はなかったようであった(後に潮位がやや上昇していたことがわかった)。情報に振り回された感はあるが、ほぼ無事に経過したことにホットした。

17:50まで待って避難指示を解除。

17:50に各消防本部に救急受け入れ再開をFAX (16:30〜18:00まで受け入れ停止)。

消防庁から21:00まで津波が襲来する恐れありとの事で21:00まで災害対策本部を維持した。この間、テレビ映像から地震津波の状況が時々刻々はいってきた。病院長などに、時々刻々経過報告をおこなった。長い1日だった。

 

3)和歌山県救護班派遣の経緯

 3/12〜3/14 和歌山県として災害医療支援チーム(DMAT)を3チーム(和歌山県立医科大学チーム・公立那賀病院チーム・橋本市民病院チーム)岩手県花巻空港の広域搬送拠点(SCU)に派遣。

 3/15 和歌山県立医科大学ではDMAT活動の終結に伴い,急性期以降の医療支援の必要性に備えて,救護班の準備を開始した.また関西広域連会の会議により,和歌山県は岩手県を支援する事になった。同日岩手県に対して派遣について問い合わせたが 現地の状況把握が困難で要請を留保された。

 3/16  岩手県からの正式要請がないものの,和歌山県立医科大学として救護班の編成を行う事を決定した。

 3/18  岩手県から和歌山県に対して救護班派遣の正式要請が入った。

 3/19  救護班第一陣がバスで岩手県に向けて出発した.救護班の編成は和歌山県チームとして県医務課と協議の上編成していく事となった。

救護 第1班持参物品:

 ・装備:DMAT資機材 + 災害亜急性期用選定薬剤

  ・交通手段:マイクロバス

       ガソリンも持参.緊急車両の手続き.

  ・食料:ビスケット・五目ごはん・炊き込みおこわ・水

  ・その他:寝袋・毛布・衛星携帯電話・ラジオ等

  

CTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド06.jpgCTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド07.jpg

 

4)医大の科長会としての初期の対応

2011(平成23)年3月14日(月)16時30分からの附属病院定例科長会で、岡村病院長から災害対策本部を設置して対応したこと、DMATを派遣したこと、医薬品・診療材料について、不足品が出ることが予想されること、各種催しについては粛々と対応してほしいこと等について報告がなされた。

3月16日(水)11時00分からの臨時科長会で下記の事が説明された(項目のみ)。

○患者の受け入れについて

○情報集約について

○救護班の派遣について

○物流確保の問題

○その他

 

その後の大学病院の対応については、DMAT, 医大チーム、医師会チーム等の項目を参照(省略)。参考までに記すと、1)DMATの派遣 3/12-3/14、2)県医療救護班としてスタッフを派遣 3/19から、1班5~7名(医師・看護師・薬剤師・事務職員)で構成。岩手県山田長豊間根(とよまね)地区の救護所の設置、救護所診療、往診活動を実施。6月20日時点で72名を派遣。人員と各班の構成を表に示す、3)福島県立医科大学附属病院への派遣 など(6月末までに)

CTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド11.jpgCTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド12.jpg

CTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド23.jpgCTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド16.jpg

CTL:東日本大震災:3.11記憶:表1 東日本大震災に係る派遣実績(人員)  .jpeg

福島医大には同じ公立ということもあってか、のべ11名が派遣され、原発関係のタフな医療に参画された。主に活動されたI先生は一段落した後に、心筋梗塞様症状がでました。法医学のK教授は、法務省から呼び出しがあり3/14に集合、そのままバスで翌日現地に入り黙々と死体検案にあたられました。

CTL:東日本大震災:救護班スライド JPEG  :スライド26.jpg

(科長会報告と緊急災害対策ニュース(計25回) をもとに経過をまとめてみました。また、I先生の報告スライドも参考にし、一部拝借致しました。私の勘違い等があるとおもいますが、ご指摘賜れば幸いです)。

 

5)その後 和歌山医大

和歌山県立医大で東日本大震災を思わすものはありませんが、3.11後にその関連予算で和歌川側の河原の整備がなされ、津波の直撃の緩和策がとられました。また、国体道路側は、門に可動式(通常は内臓)の高さ約1mのゲートができました(写真は2018年3月24日)。津波がきた場合、少しばかりの被害軽減に役立つのではないかと思います。

CTL:東日本大震災:和歌川unnamed.jpgCTL:東日本大震災:和歌浦方面unnamed.jpg

CTL:東日本大震災:国体道路側unnamed.jpg

沢山の記録や本も出版されました。その例を示します。単身赴任25年でしたが、きっちり定期的に読んでいたジャーナルは週刊ポストのみですが、「日本を信じようという」見出しは、日本の週刊誌中で出色の表紙と今でも思い、保存しています。

 

CTL:東日本大震災:関連本 IMG_2534.JPGMacintosh HD:Users:furukawa:Desktop:622939_p.jpg

 

6)その前後の古川自身

副院長であったこともあるのでしょうが、災害に対する特に津波に対する対策の遅れ、記憶の風化を懸念して、下記のマニフェストで2014年初頭に病院長選挙に立候補しました。そのなかで、災害対策の重要性も力説致しましたが、力不足で落選致しました。

アカデミアである和歌山県立医科大学の附属病院として「高度で安全な医療の構築と提供」「プロフェッショナルな人材の育成」「地域中核病院としての機能」「臨床研究の推進」のバランスのとれた病院を目指します

2017年から災害医療を重視する日赤関係の病院長に就任したのも、何かの縁でしょうか。

7)その後 古川とSNS

東京で勤務している長女が心配で、携帯で連絡をとろうとしましたが、全くとれませんでした。たまたま、2010年から始めていた、ツイートに気づくと、元気で職場から5時間かけて徒歩で帰宅したことが分かり、安心しました(ちなみに、記録をみると本震14:46の前に、13:55 - 2011年3月11日に有感で大きい地震があったことがわかります)。この経験から、SNSを持つことが家族間の連絡に大変便利で有用とわかり、FBやラインに過剰気味に展開しております。