日光からこんばんわ。TVでは、宮沢和史さんが「島唄」を歌っています。

今日は 6月23日 沖縄戦終戦から70年 慰霊の日というのをご存知ですか。

石垣経済新聞ここをクリック に、今日のことが出ていました。ぜひ、読んでほしいです。

私は、40歳になるまで知りませんでした。

ぜひ、これを機会に、沖縄戦について、沖縄戦は戦争だけではなく、

強制疎開により多くの人がマラリア羅漢し、戦争だけでなくマラリアによる被害も

たくさん出ていたこと。


小学6年生の時、家族旅行で沖縄で ひめゆりの塔を訪ねたときのことは

鮮明に覚えています。そして、母になって、息子と二人で訪れた沖縄・西表では

マラリアや、沖縄戦の終戦というものを知り、

出会った人たちから、いろいろなことを感じさせてもらいました。

少し、その辺のことを書かせてもらいますね。

感じたままに書いているので、まとまっていないことも多いのですが、その辺の揺れも含めて

「私の戦争反対」と感じて下さればうれしいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


戦争の終戦記念日、戦争が終わったのは8月15日だと思っていたけど、

息子が5歳の時、離婚が成立したとき、なぜか「南に行きたい!!」と

二人で1泊だけ宿の予約をして、西表島に約2週間、旅をしたときが、

ちょうど今頃でした。

そしてその時、初めて「沖縄戦終戦」という日があるのを知りました。


竹富島という昔ながらの沖縄が残っている島で(石垣島の近く)、

同じ沖縄宿で一緒になった石垣島出身の女性が、慰霊の日で歌を歌うと話してくれて

その時、初めて6月23日に慰霊の日があって、追悼式典などが行われているのを知りました。

(彼女は、リカ・トゥモール という名のシンガーソングライターで

彼女の歌う歌の中には、戦争や命について考えさせられるものもあり

私が子育てや、人として困ったり、迷ったり、落ち込んでいるとき

命の原点を振り返る大切な歌となっています)

ブログはこちらから



ほかのお客さんたちと、ゆんたくしながら、泡盛飲んで、島らっきょ食べながらの

話しでしたが、そんな大切なことを知らなかった自分が

恥ずかしくもあり、申し訳ない気持ちになったのを今でも、この日が近づくと思い出します。


彼女の歌で知ったこと、TVのドラマで見ていた話が本当にあった出来事だということ。

自分の意志とは関係なく死ななければいけない人が大勢いたことや、

幼子は泣いてうるさい(=敵兵に見つかる)からという理由で

幼子や乳飲み子連れの母子は疎まれ、防空壕に入れてもらえなかったり、

かろうじて中に入れてもらえても、母の手で命を絶ったり、

家族によって、また、他の人や日本兵によって命を絶たれていったこと。

本来一番守られるべき幼子が、邪魔にされ疎まれ、家族に、同じ日本人に

命を絶たれたことは、せっかく生まれてきた命も、また、せっかく授かって

自分のおなかを痛めた子供を、手にかけること、置いてきぼりにすることが

どれほどのことか・・・。

戦争が終わっても、心の中の記憶は消えない。




竹富島での、この出会いの数日前に、私は西表島にいました。

離婚直後で、5歳の息子を一人でつれて、

飛行機ではポケモン弁当だの、

乗換時には、あの飛行機のおもちゃがほしいだの、騒がれながらも

なんとか、一日かけて西表島に着いて、民宿に泊まった翌日朝の朝食時、

TVのニュースで、私たちが「生かされている」ことをとても感じる出来事がありました。


私と息子は「生かされた」と感じる出来事でした。


離婚成立、人生の新たなる一歩への旅として

離婚のことが済んだら行こうと思っていた宮城の栗駒高原が

地震にあい、宿泊予定地は震源地の近くで、もし行っていたら、巻き込まれて

ヘリコプターで救助されていたかもしれない、行こうと思っていた山荘の温泉の方が、

土砂崩れで命を落としていたことを、西表島でTVで見て、とても驚きました。


栗駒高原に行くつもりが、離婚のほか、いろいろな書類関係もすべてっきりしたとき、

南に行きたいと強く思い、早速1泊だけ宿をとって2週間の旅に出たのがその時の

西表旅。

その旅先で、自分が息子と行こうと思っていた場所が

とても大きな地震にあっていたこと、そこに行っていたら、もしかしたら、

自分たちも命を落としかねないことになっていたかもしれないことに、

とても驚きました。そして、目に見えない「命」が生かされることを感じました。




その後、西表島で行った海辺のキャンプで連れて行ってもらった浜の近くでは、

沖縄戦では、軍による命令で、住民のマラリア汚染地への強制疎開が行われたため

2万人以上の罹患者と、4000人近く(人口の11%)の犠牲者を出したことや、

中でも、波照間島は、全島民が西表南風見に強制疎開させられた結果、

疎開中も、戦後、帰島後にもマラリアがなくなることはなく、

島民の98%が罹患し、3人に1人が犠牲となるという悲劇的状況となっていたことを知りました。

その浜は、裏に熱帯の森のような山が広がり、

一瞬、そこから兵隊さんが走って逃げてきそうな

明石やさんまが出ていたドラマ「さとうきび畑」のような場所で

こんなところで、兵隊さんたちは闘い(実際には戦っていない浜かもしれませんが)、

マラリアの蔓延する中、衛生状態も悪く、食べ物もない浜に疎開させられていた人たちを

想像すると、何とも言えない気持ちになりました。

インドネシアでも、比較的自然の多い地域にいたので、マラリアがある地域に住んでいたため

マラリアも、何となく、身近に感じる怖さがわかる分、怖かったです。


そんな私の隣では、屈託なく笑って、海で遊ぶ息子がいました。


また、

船でしか行けない場所でしたが、海がきれいだというところに行ったとき、

船着き場から、きれいなビーチに行くのと反対側に、ちいさなトンネルがありました。

その先には、旧日本軍の爆弾庫跡など、硬い岩盤に掘られたいくつかの小さな部屋のような

洞穴が残っていました。こんなところに…と思うような、山を削ったようなトンネルを抜け、

今では、ほとんど人の訪れない場所に、ひっそりとのこっている 弾薬庫跡。

(日本軍弾薬庫跡)

そして、目の前にはとても海の美しい場所が広がっていました。


防空壕に入るために、自分の乳呑児の息の根を止めなければいけない母、

小さい子を置き去りにし、ある程度物わかりの付く年齢の子供だけを連れて

防空壕に入った母、いろいろな思いがあったことでしょう。

そんなことも書いていいのかも、申し訳ないくらい、何とも言えない出来事ばかりです。

今朝のニュースでも、沖縄の方の話が流れましたが、

もう、そんなことがあってはいけない、そう思います。

長くなってしまいましたが、

思うまま、書きました。


「見てきた人、感じた人には、それを伝える責任がある」。

これは、ベトナム戦争証跡記念館で感じた、私の生きている意味なんだと思います

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は、沖縄の終戦記念日

本土復帰前は、1945年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなみ、

琉球政府及び沖縄県が定めた記念日です。名前は慰霊の日。

組織的戦闘が終結と言うのは、牛島司令官らが自決した日。

しかし、その後も米軍の掃討作戦は続き、7月2日に一応の米軍からの沖縄戦終了宣言

降伏調印は、9月7日。

9月7日は1993年、全国で初めて市町村独自 の「平和の日」を条例で制定しました。

沖縄市民平和の日と定め、毎年記念行事が行われてます。