気仙沼市-東日本大震災被災地-行政視察報告書 | 二宮ひとし「尾道に夢を集めて」

気仙沼市-東日本大震災被災地-行政視察報告書

気仙沼市-東日本大震災被災地-行政視察報告書

尾道市議会 Withおのみちの声 二宮  仁


1、査察期間
  平成24年3月9日から平成24年3月11日まで 3日間


2、視察都市及び視察先
(1) 岩手県一関市(気仙沼市は宿泊所の確保ができないため滞在)
(2) 宮城県気仙沼市 東日本大震災被災地(1周年当日)
(3) 宮城県気仙沼市・臼井真人市議会議長
(4) 宮城県気仙沼市主催・東日本大震災一周年追悼式


3、目的
 東日本大震災の被災地の中でも尾道市民とのボランティアつながりが深い気仙沼市を視察先に選定した。尾道市出身のミュージシャン・池永憲彦氏と気仙沼市民の佐藤洋美氏がパラリンピックイベントで震災前からつながっており、尾道と気仙沼の縁が生まれていた。昨年7月初めには尾道市民(市議の宇根本を含むグループ)が気仙沼市でNHK連続テレビ小説「てっぱん」で有名になった尾道のお好み焼きを現地で振る舞うボランティアを実施。また昨年8月末に瀬戸田町で行われた尾道青年会議所主催のイベント「しまなみ音楽フェス絆」には池永憲彦氏も出演、気仙沼市民の佐藤洋美氏も会場にきて写真パネル展コーナーで被災の様子を説明するなど、市民レベルの交流が行われている。今回の視察は、現地で行われる震災1周年の復興イベントに参加するため、再度気仙沼市を訪れる尾道市民の動きにも歩調を合わせ、復興へ向け立ち上がろうとする被災地の取り組みと支援者としての尾道市民の関わりも視察したいと考えた。


4、視察事項
(1)世界遺産に近い観光地の取り組みについて
(2)被災地とボランティアの交流の在り方について
(3)災害時の対応について
(4)復興への取り組み(主にネットワークづくり)について


5、一関市(岩手県一関市)
  一関市の概要
 一関市はJR東北新幹線の仙台駅、盛岡駅の中間に位置し、東北本線に乗り換えると2区間で平泉駅となる。そのため平成23年に世界遺産となった中尊寺への観光入口となっている。また一関市内にある骨寺村荘園遺跡は中尊寺登録の拡張による世界遺産登録も目指している。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の経蔵別当の所領だった奥州藤原氏ゆかりの荘園で、代表的な日本の原風景を留めている。海には面していないが、宮崎県気仙沼市とはJR大船渡線(単線)で結ばれ、東日本大震災後は宿泊施設が不足している気仙沼市へのボランティアの宿泊拠点としても機能している。人口127,642人(平成22年国勢調査)。


一関市の観光
 広域から観光客を集める民間商業施設、温泉、渓谷もあるが、観光文化施設は少ない。骨寺村荘園遺跡は時間の関係で訪れることはできず、観光パンフレットの入手に止まった。駅前を歩いて回ったが、松尾芭蕉二夜庵跡、酒の民俗文化博物館、旧沼田家武家住宅などの観光ポイントが散在する。それらを散策するエリアに飲食店も散在し、一関商工会議所観光部会制作の飲食店MAPが発行、無料配布されている。昼間の登録店は和洋食、すし、そば、焼肉など38店舗、裏面の夜用には居酒屋、カクテルバー、寿司、割烹、焼き鳥など53店舗が登録されていた。一関は多様な餅料理が日本一と謳ており、餅料理の有無を記載していたのが特徴的だった。
酒の民俗文化博物館は東北地方最大規模の酒造蔵があった場所で、現在は「世嬉の一酒造」が蔵跡を利用してレストラン、観光客向け酒類販売店舗などを経営しており、日本酒とともに地ビール「いわて蔵ビール」を醸造している。東日本大震災で蔵の一部が崩れ、現在は修復しているが、崩れた壁材、崩れたときの写真パネルなども展示していた。松尾芭蕉二夜庵跡の石碑も土台が被災していた(未修復)。またジャズファンやその業界では有名なジャズ喫茶「ベイシー」がある。JBLの大型スピーカーを据え、大音量で聴かせるジャズレコードは迫力がある。カウント・ベイシーやJBLの社長も訪れたという同店は大物ジャズプレーヤーがライブを行い、全国のジャズファンが足を運んでいる。訪問しなかったが、パンフレットによると宮沢賢治が技師として働いた石灰生産の工場跡と顕彰する石と賢治のミュージアム「太陽と風の家」もある。


一関市の感想
観光地としてはまだまだ未整備だが、一歩、一歩、整備を積み重ねている。古い建物を生かした商店も見られ、歩道にはまちが誇る人物を顕彰する石碑がシリーズ性をもって計画的に配置されていた。東日本大震災で被災しており、立ち寄った飲食店も被災直後は店内がめちゃめちゃだったと聞き、店内に言葉通りの様子がわかる被災当時の写真も掲示してあった。話を聞く機会があった仙台の人は、一関から高速で仙台に帰る途中の高速道路で地震に合ったが、停車させた車がずれるほどの揺れで不安だったとのこと。仙台まで通常は2時間の行程が、地震後は信号機の停止などによる渋滞で9時間かかり、帰った自宅は足の踏み場もない有様だったとのこと。また別の一関市の人は、新築の自宅の壁がひび割れ、4月に入ってからの余震による被害の方がひどかったとのこと。3月11日の地震では動かなかった床下の暖房設備用煉瓦が4月の余震でひっくり返る被害にあったという。勤務先の製紙会社は3月の地震で工場設備が被害にあい、2週間で復旧させたが、4月の余震で再度の被害にあったとのこと。大規模地震の遅れてくる余震の被害も想定する大切さや災害時の渋滞発生への対応の必要を教わった。東日本大震災で沿岸部の津波被害にばかり目が向くが、内陸部でも地震による被害が建物内部を中心に相当あったと分かった。


6、気仙沼市東日本大震災被災地
 気仙沼市の港付近を中心に自転車で視察。JR気仙沼駅には観光センターがあり、4人体制でボランティアの受入機能も兼務していた。駅から港までは約1kmほど。緩やかな下りで途中に市役所があり、その前まで津波が来たとのこと。港が近づくと津波に1階が流された建物の連続になり、家ごと流された建物が異常な向きで隣の建物に寄りかかっている風景も見られた。1階がなくなり2階だけになった趣のある建物が港付近にあったが、後にその建物は登録文化財の建物と分かった。中央の旅客桟橋は1つだけ復旧、3つほどはしけ部分が海に落ち、浮き桟橋は撤去されていた。満潮時で海面と陸地の高低差があまりなく、浸水被害が起きやすい立地のようだった。港を囲むから80mほどのまちなみは7割ほどの建物が流されたようでコンクリートの基礎を残すだけとなっていた。
 魚の加工工場などが集まる東側の埋立地と港に移動したが、そこは壊滅状態。幅500m、奥行き1kmほどの埋立地は川沿いに広がり、奥の道路土手までほぼ壊滅していた。大きな建物は姿を残すものの内部は既に空っぽだった。仮設の道路(50cmほど従来の道路をかさ上げ)が中央やや山側よりに1本、そこから枝線が横に数本つくられていたが、その広大な埋立地はコンクリートの基礎が残るばかりの更地になっていた。
 更地のところどころに杭が打ってあり、赤字で最低埋立ラインとしるされていたが、その高さは地面から1.5mほどだった。広大な埋立地をさらに埋め立て、かさ上げして後に建物の復興、まちづくりが始まると思われ、その実現の遠さを感じた。
 中央の旅客ターミナルを挟んで反対の西側エリアに移動したが、そこも広大な埋立地で港側は魚市場、その後背地は魚の倉庫などが立ち並んでいたであろうエリアだった。東側の埋立地よりさらに広大なその西側エリアの埋立地は1平方kmより広いと思われたが、ほぼ壊滅状態だった。
 被災現場のがれきはほぼ撤去が終わり、ところどころにボタ山があった。そこでは分別が進み、金属類、ガラクタ、木くずなどに分かれ、木くずは長さ10cm、幅3cmほどのチップに粉砕されていた。またボロボロになった自動車が数か所に集められ、段重ねになっていた。更地に残されたがれきはごく一部で、膨大ながれきは20kmほど南の沿岸部にボタ山をつくっているとのことだった。
 そんな被災現場の片隅に仮設の商店街ができていた。「復幸マルシェ」と名付けられた仮設商店街は約10店舗で視察当日がグランドオープン日。ステージが組まれ、仙台や神奈川など全国から応援に駆け付けたよさこいソーランのグループが踊るなど、景気づけイベントを行っていた。また小中学生を中心にした地元の民間太鼓演奏団体は寄贈された太鼓で演奏していた。以前の太鼓はすべて流されたとのことだった。
 復興商店街は視察した範囲で3カ所。飲食店だけの屋台村のような商店街も含まれていた。それぞれで大震災1周年に合わせた復興イベントを行っており、南町・紫市場のイベントを知らせるポスターには「尾道焼き」が振る舞われる案内も含まれていた。そうした復興への取り組みを全国に伝えるべく、報道陣、テレビ取材も数多く入っており、みのもんた氏が現地入りしての「朝ズバ」収録、芸人サンドイッチマン出演の番組収録などが見られた。


二宮ひとし「尾道に夢を集めて」


7、災害時の対応
 気仙沼市の宿泊施設は数か所しか残っておらず、1周年もあって市内に宿泊場所を確保することは困難だった。現地で視察を受け入れる世話をしていただいたのは老人保健施設「キングスガーデン」の方々で、当時の様子をうかがうことができた。駅に近い施設で津波被害を逃れた大きな建物で、一時避難の場所にもなった。携帯電話はつながらなくなり、電話が通信手段。バイクで町内を放送して回ったが、ガソリン不足で難しくなった。当分は電気がない生活で、避難所登録を市に行い、給水車が回る場所になったので助かったとのこと。隣のコンビニエンスストアは直後から3日ほど閉店、開店後は電気がなくレジスターが動かないため、電卓による手計算で支払客に対応、そのため店内への入店を10人ずつに制限していたとのこと。みんなが欲しがっていた商品が入荷したとのデマ情報が流れて、行列ができたこともあったという。全国から集まるボランティア救援物資のコントロールは難しく、ある福祉団体が高齢者用おむつが足りないと連絡を入れると、2トントラックいっぱい運びこまれて(1週間後にさらにもう1台分)保管場所に困ったという。またカップ麺などの食料品は賞味期限切れに近いものが運び込まれることも多く、現地で保管しているうちに賞味期限が切れ、今度はごみ処理に追われることもあったとのこと。遠方からの援助物資は「必要なものを 必要なときに 必要なだけ」というコントロールが極めて難しくなる。その面では、現地の人たち同士でネットワークを組み、少し足りない物を余っている人から融通してもらうと、ジャストインタイムの供給が可能になるとのことだった。カップ麺は同じ銘柄の「どん兵衛」でも北海道版、関東版、関西版、九州版と地方によって味付けが違い、全国から集まると「今日は九州にしよう」などといった冗談も聞かれたが、救援物資に頼る生活も長くなると、贅沢になり、飽きがくるため、より上質を求めてしまうようになるとのことだった。また基本的に医療、高齢者福祉などのサービス不足が深刻になっている。
 
8、ボランティアのネットワーク
 気仙沼市と尾道市の縁は、目的の項で触れた通り、尾道市出身のミュージシャン・池永憲彦氏から始まり、尾道青年会議所に膨らんだことによって多様性を持ち、深まった。尾道青年会議所と縁を持つと人とその人と縁のある尾道の一般市民、また尾道青年会議所メンバーと気仙沼青年会議所メンバー、尾道東ロータリークラブ会員と気仙沼南ロータリークラブ会員といった具合に広がりを見せている。大災害では政府など全国規模の援助団体がまず動くが、全国一律の動きでしかなく、時間とともに変化するニーズ、現場ごとに変化するニーズへの対応は、小規模グループ同士の対応が必要になってくる。そうした段階での対応は、やはり日ごろからの縁が物を言う。特に災害から1年といった時間が経過すると、被災地のニーズは基本物資からアメニティを伴うものへと変化する。子どもへの楽しみの提供、イベントでの元気づけなど精神的、演芸的な要素も大きくなり、行政での対応が難しくなるため、民間ボランティアの出番となる。ボランティアの課題ではないが、学校の体育館、運動場などが避難者の場所となっており、子ども達が運動する場所(クラブ活動も含め)がなくなっており、体育館の明け渡しなども課題になっているという。


9、臼井真人気仙沼市議会議長の話
 翌日が3月11日で市主催の追悼式が行われるという多忙な中、直接話をうかがうことができた。3月11日の大震災当日は金曜日で、議会開会中。予算委員会の会期中で、議会を開かないと新年度(平成23年度)予算が執行できない事態になるため、2週間ほど遅れて議員30人のうち16人が必死で集まり、3月中に可決させたとのこと。なお1年を経た平成24年度の予算(特に収入)は前年並みに確保されているという。20年で1300億円の復興計画を予算化しようとしているが、建設をしようとしてもホテルがない。建設作業員が来て宿泊する施設がない。現在は、区画整理を行うための測量など土木技術者も足りない。土木技師は100人欲しいが、いま40人しか確保できていない。各自治体に要請中で、OBでもいいと言っているがなかなか集まらない。といった課題が山積しているとのことだった。20年先のビジョンを描けるかどうか。復興したとき、若い人がいなくなっていたという事態にならないかが心配とのこと。また個人談として、自宅が津波で流れたとのこと。人的被害はなかったが、20年間書き続けた日誌も、アルバムのコレクションも、議会に着て行く背広もすべて流されたとのことでした。


10、気仙沼市主催・東日本大震災一周年追悼式
 3月11日午後2時30分から始まった気仙沼市主催の東日本大震災一周年追悼式に参列。地震の起きた午後2時46分から中継された政府主催の追悼式に合わせて黙とうがあり、尾道市民を代表する気持ちで犠牲者の方への哀悼の誠を捧げ、復興を祈念して参りました。会場はびんご運動公園の屋内運動場に似た規模の施設だったが、駐車場の半分以上は避難している方の仮設住宅だった。


11、考察
 災害はいつどこでどんな災害が起きるか分からない。尾道市では、東日本大震災と同じ規模の津波を想定することは難しい。しかし一部の学者は四国沖で巨大地震が発生すると四国の東西端を入口として紀伊水道、豊後水道を経由して津波が瀬戸内海に入り、中央に位置する尾道沖でぶつかるため、波でなくとも10mを超える異常潮位になる可能性を指摘している。さりとて防災対策のコストは膨大であり、財政難の尾道市にとっても防災対策の合理性が問われる。どんな災害を想定すべきか、専門家の意見が食い違う中で素人判断をせざるを得ない。しかし現実的な災害を予測することもできる。台風による大雨などがもたらす土砂崩れ、浸水、河川反乱といった自然災害。また自然災害ばかりではなく、人工的な災害としての火災、水道テロ、広域・長期間の電力ダウンなどは今後100年間を見通しても可能性が高く、十分に対策を考え、備えておく必要がある。しかもハード面での対策に加えてソフト面での対策も望まれる。また今回の視察では、災害発生直後の避難方法、救援方法、ボランティアの受け入れ方法など、日常の中に取り入れる防災訓練や防災意識啓発を含む小さなノウハウの蓄積が官民ともに大切だと考えさせられた。