上級教会への不足はよく耳にします。その裏には、
 
 「偉そうに。誰のお陰で飯が食えると思ってんだ。俺達のお陰だろう。あんたにたすけられた覚えはない!」
 
 との意識が働くからなのかも知れません。確かにその通りではあります。
 その昔、三波春夫が「お客様は神様です」と言ってファンから絶大なる支持を得ていましたが、今は、客の方からこれを求める時代です。買い物に来た客が、レジの対応が悪いと暴言を吐き、
 
 「俺は客だぞ!買ってやってるんだ!」

 と言って暴れる。
 子供への指導がなっていないとて、教師を相手に暴言を吐き、とことん追い込んで謝罪させるモンスターペアレント。

 上級教会への不足も、これによく似ています。
 日本人の美徳とも言える文化慣例が、西欧文化に圧される形で浸透し、親や目上が絶対ということは、むしろ時代遅れだと刷り込まれて来たのでしょうか。教会も、と言うより教会長を筆頭に、その家族も、今や信仰の根本を忘れ、今あるのは当たり前で、信仰の元一日である、初代がこの道の教えでたすけられたことに端を発する、御恩報じの精神を忘れ去ってしまったのでしょう。もう何代もかけて御恩は返して来たのだから、いつまでも上級面下げてるのが嫌だ、という意見もあります。しかし、御恩報じとは、我がご先祖をたすけていただいたことのみのものでしょうか。決してそうではありません。親神様の広大無辺のお働きに対して、教えの先達たる教会が、その親心に報いる歩みを率先垂範するための取っ掛かりに過ぎないのです。言わば、返しても返しきれない御恩を忘れず、日々教えを実践することに意味があります。
 
 籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人

 これは、職業に貴賤なしを表した昔の言葉です。世の中には様々な職業があって、お互いは持ちつ持たれつの間柄である。上を見れば切りがなく、下を見ても切りはない。この世の中は助け合いの世界である、と言う意味ですね。論点が多少ずれるかも知れませんが、教会の系統順序も、これは教史の上で自然発生的に出来上がったものです。確かに、おやさまは教会設立を反対し続けました。でも、お隠れまでの間に、真柱始め取り巻きの弟子たちに心定めをさせ、神一条の心でおつとめをつとめる覚悟を受け取って、教会本部設置を許されたのですし、その後の部内教会設立についても、おさしづを以てこと細かく教示されており、今後はこの教会順序を経て、道の歩みを進めてくれるよう結ばれています。それを思えば、私達の歩みが、教会本部や部内教会の設立当時の緊張感と、信仰的躍動に満ちているか自省すべきです。

 私はこれまで、上級の会長に不足して自教会の会長を辞任した人や、天理教そのものから離反した人を何人か見てきました。その方たちの言うことに、ごもっともな内容もたくさんあります。私はそんな人を見ると、周りを巻き込んで要らぬ不足の輪を広げるくらいなら、嫌なら辞めたら良いのに、と考えて来ました。でも、人間思案ほどあてにならないものはありません。私の所に近所の教会の会長がやって来て、

 「教会辞めて娘の家で暮らすことになった。たった一人の信者だけど、あんたに頼むわ」

 と、建物もそのままにして町を出て行きました。それから二、三ヶ月後、新聞のお悔やみ欄にその元会長の名前が載っていました。
   
   教会の長男だから仕方なく
   親が亡くなったので仕方なく
   他にやる人がないから仕方なく

 どんな事情からでもたまたまなったのではない。いんねん事情から、神様がそうなるように連れて通って下さった。代を重ねた教会の会長
は、その自覚こそが肝心だと思います。

   不足は切る理、たんのうは繋ぐ理