今日は母の記録を残しておきます鉛筆

自分と母との思い出でもありますが

どなたかの参考になれば幸いです。



2021年の春、コタロがもう少しで

生後半年になろうとしてる頃。


病院へ母と診断結果を聞きに行った父が

私達が待つ駐車場に一旦戻ってきた時

父のあの表情が忘れられない。

「あ、ダメだったんだ。癌なんだ。」

そう悟った。この時余命は3年半だった。


車から降りたり乗ったりはしゃぐタロと

あーうー言ってるコタロを横目に

桜が舞い散る中、私と父は沈んでいた。


肺腺癌だけなら切除出来たけど

既に胸骨に転移していたから

根治ではなく延命治療になった。


タグリッソ服用して効かなくなってきて

1年後、母が避けていた抗癌剤に切替えた。


でも造影剤とか諸々、母には合わなくて

全身の肌が痒くてただれて、

進行するとベロンと剥がれるだろうからと

抗がん剤は4回目で中止になった。


それまで3週間おきに抗癌剤を受けて、

その1週間後から体調が悪くなり

食欲も無く吐き気と怠さに耐えて

そして次の抗がん剤治療の頃にまた

体調が戻って…の繰り返しで


結局抗がん剤治療してる間は

体調が良いのが1週間ずつしかなかったし

結果的に途中でやめたから

完全な成果を得られないままになった。


ただ頭は徐々にしっかり禿げて

美魔女と周囲から呼ばれていた母の為に

子供3人でお金を出し合って

高い人毛ウィッグをプレゼントしたなー🎁


結局またタグリッソ💊に戻ってからは

通院になったから、大嫌いな入院がなくて

母は嬉しそうだったけど、酷い口内炎やら

食欲不振やら吐き気やらと

快調な日は戻らなかった。



去年の6月、腰椎等にも転移が見つかり

何もしなければ余命半年と言われた。


急に短くなってしまった母の余命。

仕事中でも私はよく泣いてしまっていた。


ずっと医療費が負担になるし、

これ以上は子供達にも迷惑かけたくないと

母はもう治療なしで良いと言っていたけど

私達からしたらとても受け入れられず

兄妹で電話で話し合って

まずはお金を捻出することを考えた。


そんな中、私がたまたま母にかけていた

プレデンシャルの介護保険は

被保険者が余命半年以下と診断されると

リビングニーズ特約が適用となり、

まとまった額が支払われるとのことだった。


しかもドル建で為替的にとても良い時期で

260万円程まとめて受け取れた。

これで当面安心して治療を受けられるからと

説得してまたタグリッソが継続された。



しかし今年の3月に水頭症と脳髄膜炎になり

認知症のような症状が目立ってきた。

同じ話を何度もしたり

今日が何日か分からなかったり

今自分がどこにいるのかとか

孫の名前が出てこなかったり…



そこで、前髪の生え際辺りに穴を開けて

溜まった水を捨てる手術を受けた。

水が無くなるとすっきりするのか

一時的に記憶も表情もハッキリしていた。


暫く入院して水を外に捨てていたが

今後外来の度に水を捨てる手間を考えて

シャント手術(※)を受けて退院した。


※脳から腸まで皮下体内に管を通して、脳に溜まった脳髄を排泄物として排泄できるようにする手術



この手術をしてからは体調が良くなったが

入院中に祖母(母の母)が亡くなった。



4月に祖母の火葬、私の出産、

5月にみんなでBBQをして集まった。


そしてこの頃から母の耳が遠くなり

目もガチャ目になり、また記憶障害になり

この3つが同時にきた感じになった。


水頭症と手術の後遺症によるもの

と言われていたけど、

後遺症がどんどん悪化するのはおかしい



この頃私達には告げられてなかったけど

兄嫁(癌患者の緩和ケア病棟で働く看護師)

が髄膜播種を疑っていて、最近宣告された。


兄嫁が言うには

髄膜播種は診断されると余命が一気に進み

3ヶ月もつかどうか…という考えらしい。

やはり脳だから、いろんな障害が出る。



ちなみに髄膜播種=癌性髄膜炎。

結局脳の癌と同じようなもので

日に日に症状は酷くなってきている。


まだ少量なら時間をかけて食べられるし

飲んでと言えば水分もとれる。

すんごいよくむせるけどね。

希望して処方されたエンシュア飲ませてます。

最悪これさえ飲んでれば1日の栄養もKcal摂れるから◎


飲食出来なくなったら普通点滴摂取だけど

もう母の場合はそこまでしないらしい。

だから飲食出来なくなったらそれはもう

命が尽きるのを見届けるということと

急変しても搬送しないで看取るって…


訪問医師から言われた言葉が

胸に突き刺さる家族。辛いなぁ。。




辛いと言えば先月、母が

椅子に座って膝に三男を乗せていたのに

膝に乗せてたことを忘れてしまったのか

抱き上げる力が無かったのか

自分だけ立ち上がってしまって

たーたんがすこーんと床に落ちて

後頭部をごんっ!と打って大泣きした時は


血の気がひいたし、一瞬母を恨んでしまった



こういうひとつひとつが、危ないのよね




時間の感覚もないから百日祝いにも

支度が間に合わなくて大幅遅刻して来たし

朝3時頃覚醒しちゃって誰かれかまわず

電話かけまくってたり、テレビ見出したり


最近は実家では火の元栓は都度しめてるし

包丁を隠してしまっておいたり

足元は転ばないようなるべく物は置かない



先月末に要介護4を認定されて

今月から看護師、訪問医師、ヘルパーが

日曜日以外、誰かしら来てくれることに。


母はまだ羞恥心があるらしく

オムツや着替えを恥じらって父や兄には

絶対触らせないらしい。

※羞恥心がなくなったらいよいよマズイらしい


私にも恥じらうし遠慮するけど

そうだね恥ずかしいから早く着替えちゃお!

臭うから急いで替えちゃうね!ニコニコ

とか言いながらさっとやってあげれば

なんてことない。

これが父が出来ないから結局私が

朝いちのオムツ替えに平日実家に通ってる…

肩を組んだり支えてあげないと

起き上がることも歩くことも難しいしね。



介護認定受ける前がもっとキツかったなー


廊下や部屋で💩して踏み歩いちゃって

そのまま寝てるのを見た時は

ほんとに涙が出そうになったなー


父もあの時はもう俺は片付けないからな!

て怒っちゃって…私がやるしかなくて。



たーたんが寝てくれてる間に汗だくになって

母の汚物を掃除したり、汚物で汚れた

母を起こしてお風呂場へ誘導したり…



今はプロが入ってくれてるし、そもそも

もうオムツになったからそこまでの

苦労はなくなったから気が楽にはなったけど

それでもプロが来る前に朝のオムツ替えは

やらないと大変なことになるから

私が行かないと行けないし…


基本父の言うこと聞きたくない母泣き笑い


実家行ったついでに父と母の料理も

作ってあげたり薬飲ませたり授乳したり

なんやかんやしてる内に

もう保育園お迎えの時間!帰るねー!

て毎日バタバタ不安帰ってもバタバタ泣き笑い



完母でいまだに空いて3時間授乳だから

夜中もぶつ切り睡眠でキツいし

(次男の夜間のオムツ替えとかも夫やらん)

昼寝したいけどそんな時間ない泣き笑い



でも!来月9日に母は67歳になります誕生日ケーキ


今はその日を迎えるのが私たちの目標。

だから頑張れる。大好きな母。


たまに私を兄嫁の名で呼んだり昇天

指示が通らなくて会話にならないことも多々

もう思い出話も出来ないし

ごく稀にまともな会話が出来ると感動する

そんなレベルだけど



それでも、その日がくるまで…


1日1日を大切に過ごしたいです。



私にとっての癒しの、母と長男と三男❤️

次男はモンスターなんで癒しとは真逆よオエー