師匠の夢の実現は、弟子の誓いに…‼

 エドモンド・ダンテスは、素朴な船乗りの青年で、愛する女性と婚約し幸せな日々を送っていたが、ある日無実の罪をでっちあげられ、自分では状況が理解できないままに、恋人と引き裂かれるようにして、監獄に送られてしまう。送りこまれた先は「誰ひとりとして生きて出た者はいない」という監獄で、薄暗く不潔な獄中で次第に生きる気力さえ失い、ついには食事を絶ち、餓死寸前の状態に陥る。だが何のめぐりあわせか、獄中で賢者のごとき神父と交流できたことで、自分の身に降りかかったことのカラクリや罠にはめた者たちが誰だったのか理解できるようになり、復讐への強い想いがダンテスを生き延びさせる。14年にもおよぶ獄中生活に耐えた後、脱獄に成功し、姿を消す。それから9年後のこと、社交界は謎めいた貴族「モンテ・クリスト伯爵」の噂話でもちきりとなっている。実はそれは、神父から与えてもらった情報をもとに巨万の富を手に入れ、すっかり紳士となったエドモン・ダンテスだった。伯爵は、誰にもダンテスとは気づかれぬまま、かつて彼を陥れた者たちへと巧みに近づく。そして、ひとりまたひとりと、復讐を果たしてゆく…。これは有名な小説「モンテ・クリスト伯爵」のあらすじです。先に投獄されていたファリア神父から、獄中にて何故投獄されたかや万端の学問を教わり、紳士的なふるまい、財宝のありか、脱獄の仕方も全部体得し、脱獄する。ファリア神父を師と仰ぎ、神父の死体と入れ替わって脱獄し、そして自分たちを貶めた悪に復習していくというスペクタルな物語です。実際に起こったことを参考に書かれた小説です。内容は”復讐を誓う”いうものですが、師匠と弟子の強い絆と言うことに関しては、牧口先生と戸田先生、戸田先生と池田先生の師弟共戦とつながります。でも、ここではもちろん”世界平和建設”の共戦です。ちなみに、この小説は、後に戸田先生の若手人材育成のための”水滸会”の教材にもなっています。日本では巌窟王として翻訳されていますが、戸田先生が書かれた小説人間革命では、自身のことを巌九十翁の”厳さん”とも表現しています。

 世界公布の実現は、創価学会戸田城聖第二代会長の宿願でした。「この世から悲惨のをなくしたい」との強い思いから、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を世界に流布することを強く心に持たれていました。しかし、戦中に軍部による”神社崇拝”、”紙札を祭る”とこを拒否したことによって、1943年治安維持法違反で拘束され、そして約2年間の投獄されました。その間に、初代会長は獄死され、多くの会員(当時は創価教育学会)は退転しました。出獄した時には、戸田先生一人となり、牧口先生の無念を晴らす思いで「学会の再建」を決意し、また、牧口先生の無念と正義を晴らすという”復讐”のい思いを秘めて、一人立ちました。その結果、牧口先生の正しさを証明し、75万世帯の願業を果たし見事に学会の再建を果たしました。しかし、その間の想像を絶するような心労が、戸田先生の健康を蝕んでいたのです。そのために、結果しては、夢であった海外の地を踏むことはできませんでした。病床にある時に戸田先生が、池田青年に語ったのが、夢の中でメキシコに行ったことの話でした。戸田先生のこの海外への思い、世界公布の宿願が、後の世界公布への実現につながったのです。つまり、”師匠の思いが弟子の行動”をひき起したのです。

その部分書かれているところを紹介します。

 

 伸一は、胸に手をあてた。彼の上着の内ポケットには、恩師戸田城聖の写真が納められていた。彼は、戸田が逝去の直前、総本山で病床に伏しながら、メキシコに行ったと語っっていたことが忘れられんかった。ーあの日、戸田は言った。「待ってた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。世界甲府の旅に…。伸一、世界が相手だ。君の本当のの舞台は世界だよ。世界は広いぞ」 伸一は、戸田が布団のなかから差し出した手を、無言で握り締めた。すると、戸田は、まじまじと伸一の顔を見つめ、力を振り絞るように言った。「…伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして世界に征くんだ」 戸田の目は鋭く光を放っていた。伸一は、その言葉を遺言として胸に刻んだ。(第一巻 旭日 p14)

 

 池田先生は、戸田先生と電車の中や食堂で、そして日曜講義や雨宿りをした軒先等で話したことを全て真剣に受け止め、先生の夢を必ず実現させようとしました。自分なら多分「そうなればいいですね」とか「それはちょっと⁉」とか聞き流すか、気にも留めなかったでしょう。しかし、池田先生は「戸田先生の言われたことは全て実現させる」「先生の言われたことは全て遺言として胸に刻む」との思いでした。ですから、戸田先生がこの病床で、か細い声で言われたであろうメキシコに入った話も、世界公布の話も、ダイレクトに”心と心”が線で繋がれて、大きく響いて聞こえ、胸奥に深く刻まれたのだと思います。戸田先生の逝去は、昭和32年4月2日。そして池田先生が世界広布の第一歩を記したのは、会長就任後半年後の昭和35年10月2日。僅か3年後には、戸田先生の写真と共に、世界広布の旅に出られました。何と迅速なことでしょう。驚きです。また、2日というのは戸田先生の命日です。何という”子弟の絆”でしょう。この日にちまで選ぶことなど、これは、他の誰にもまねができないと思います。この章には、記述されていませんが、戸田先生のメキシコに行った時の情景は、メキシコ市の中心にそびえ立つ独立記念塔と街の景観で、後に実際にメキシコに行って池田先生が目にした景観は、全く同じだったということでした。全く驚きの一言です。

 

 戸田先生の世界広布の”夢”は、池田先生によって”正夢”になりました。「夢物語」というと、一般には、”あったらいいなこんなこと”、”なったらいいなこんな風に”と、あくまでも絵空事で終わってしまうものです。しかし、池田先生は、会長就任後に即実行されました。もし、池田先生が会長でなかったらそれはできなかったでしょう。普通であれば、また他のいかがわしい宗教団体であれば、会長という名前の上に胡坐をかいて、一般会員から”供養”だけを無心していた状況になっていたかもしれません。そうならなかったのは、やはり強い師弟の絆と薫陶があったからです。戸田先生は、明治時代に留学した人たちが帰国時に難破し、貴重な資料を全部失って、結局頭には何も残っていなかった。結局は何も学ばないできたとことと同じだと言う逸話を通して、池田先生には一切メモを取らせなかったという話を読んだことがあります。つまり、資料を見れば、あそこに書いてある。でも、メモしただけで、頭には残っていない。そのような安直な学びでは、役に立たない。そのために、一舜たりとも、一言も聞き漏らさず、全てを頭に心に刻み付けるという薫陶があったのです。ですから、戸田先生の病床でのか細い声の夢物語でも、池田先生にとっては、必ず実現すべき”天の声”でした。日蓮大聖人の御書にも「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑いあるべからず」とあるように、戸田先生の病床の言葉は、末法万年・全世界に広がるであろう妙法の広宣流布の姿の実現の”始まり始まり”の宣言の言葉だったのです。池田先生と同時代に生き、広布の陣列に自分達が少しでも加われたことは、ありがたいことです。まさに「在在諸仏土常与師俱生」の姿で感謝感激です。