書き始めにこそ、強いメッセージがある‼

 

 何事につけても、「始めが肝心だ!」とはよく言われることです。例えば、野球にしてもサッカーにしても、試合では良い準備をし、先ずは「先取点を取ること」が大事です。初めに先行すれば、それ以後のゲームを優位に進めることが可能です。これは、人間関係でも同じです。始めに、しっかりとしたルールができていれば、後のもめ事や混乱も少なく、スムーズに事が運ぶ場合が多いです。良い準備、良い計画ができていれば、相手の心を掴み、良いスタートが切れます。小説もある意味では、似たようなことが言えます。書き始めの文が大事です。僅か数行の文ですが、そこに主題こめられ、その後の展開が想像されて、ワクワクしたり、期待感が高まったりします。例えば、松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ 馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、…」です。これは、「月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じ。船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いなのだ。かの西行法師や宗祇、杜甫や李白など、古の文人・墨客も、その多くは旅において死んだ。私もいつの頃からか、一片のちぎれ雲が風に流れていくのを見るにつけても、旅への想いが募るようになってきた。…」という意味です。芭蕉の旅への強い思い、一度出立れば長くなる、そこには喜びも、大変さも、感動もあるだろうことを想定して書き始めています。読み手も、その一文により、どんな感動を私たちに伝えてくれるのか、またどんな句を詠んで表現するのかというい期待感を抱きます。また、日蓮大聖人の「立正安国論」の冒頭の文は「旅客来りて嘆いて曰(いわ)く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)、遍(あまね)く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨路(みち)に充てり。死を招くの輩(ともがら)、既に大半に超え、之(これ)を悲(かなし)まざる族(やから)、敢えて一人も無し。然(しか)る間、或(あるい)は「利剣即是(りけんそくぜ)」の文を専(もっぱ)らにして西土教主の名を唱え、或は「衆病悉除(しゅびょうしつじょ)」の願(がん)を持(たも)って東方如来の経を誦(ず)し、或は「病即消滅・不老不死」の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇(あが)め、或は「七難即滅)・七福即生」の句を信じて百座百講の儀を調え、有るは秘密真言の教に因(よ)って五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ、有るは坐禅入定(にゅうじょう)の儀を全うして空観の月を澄し、若(も)しくは七鬼神の号(な)を書して千門に押し、若しくは五大力の形を図して万戸(ばんこ)に懸(か)け、若しくは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀(さいし)を企て、若しくは万民百姓(ひゃくせい)を哀んで国主・国宰の徳政を行う。然りと雖も…」です。訳すると「旅客が来て嘆いていうには、近年から近日に至るまで、天変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、その死骸や骸骨が道路にいっぱいに満ちている。すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もなく、万人の嘆きは、日に日につのるばかりである。そこで、あるいは浄土宗では「弥陀(みだ)の名号は煩悩を断ち切る利剣である」との文を、ただひとすじに信じて念仏を称(とな)え、あるいは天台宗では「すべての病がことごとくなおる」という薬師経の文を信じて薬師如来の経を口ずさみ、あるいは「病がたちまちのうちに消滅して不老不死の境涯をうる」という詞(ことば)を信じて、法華経の経文をあがめ、あるいは「七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずる」という仁王般若経の句を信じて、百人の法師が百か所において仁王経を講ずる百座百講の儀式をととのえ、またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、五つの瓶(かめ)に水を入れて祈禱を行い、あるいは禅宗では坐禅を組み、禅定の形式をととのえて、空観にふけり、さらにある者は七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、ある者は国王、万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて万戸(ばんこ)に掲げ、あるいは天の神、地の神を拝んで四角四堺(しかくしかい)のお祭りをし、あるいは国王、国宰など、時の為政者が万民一切大衆を救済するために徳政を行っている。しかしながら…」ということです。日蓮大聖人が、鎌倉時代の目の前の惨状を余すところなく描写しています。民衆は窮乏し、それに対して、幕府は神社仏閣に祈祷をさせ調伏しようとしているけれど一向に良くならない。その根本原因とその解決法誰もが知らないでいる。「それを知っていて解決できるのは自分だけである」という強いメッセージを込めている分ではないでしょうか。このように冒頭の文は、非常に重要です。では新人間革命の冒頭の文はどうでしょうか⁉

 

 平和ほど、尊いものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。

一九六〇年(昭和三十五年)十月二日…。山本伸一、三十二歳。彼は今、胸中に平和の誓いの火を燃やしながら、世界へと旅立とうとしていた。それは、創価学会第三代会長に就任してから、わずか五か月後のことであった。(第1巻 旭日)

 

 「新人間革命」の前に1965年から書かれ聖教新聞に連載された「人間革命」の書き出しは、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。…」(人間革命・1巻・黎明)です。そして、その人間革命の前書きには、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。——これが、この物語の主題である」とあります。それは戦後、第二代会長戸田先生が創価学会の再建に一人立ち、75万世帯の弘教という誓願を達成し、後継の弟子・山本伸一(池田先生のペンネーム)が第三代会長に就任するまでをつづった物語です。戸田先生の足跡・行跡等を弟子として池田先生が書かれたもので、日蓮仏法の信仰によって目覚めた人びとの“蘇生のドラマ”と“師弟不二の闘争”を描く、“不滅の真実”の一書でした。戦争で辛酸をなめつくした沖縄の地で「一番苦労した人が一番幸せになる権利がある」と言う思いで書き始めました。小説を書き始めるにあたって、そのような思いで場所まで熟考し選定された、池田先生の心情と真心を深く思い知らされました。

 続いて書かれたのが、「新人間革命」です。この書の前書きには、本当は、”自分のことは他の人に書いてもらいたい”というためらいはありました。しかしそれでは、池田先生の足跡は記せても心情や思想という”心”までは記せないだろうという判断から、自らの手で書かれたものです。「人間革命」を書きあげ、その後「新人間革命」を書き始めたのが、65歳でした。「ゲーテもユゴーもトルストイも、八十歳過ぎても信念のペンをとり続けた。自分はまだ六十五歳でまだまだ若い。この書を生涯の仕事の定めとして、後世のために、金剛なる子弟の道の「真実」を、そして日蓮大聖人の仰せのままに「世界広宣流布」の理想に突き進む尊き仏子が織りなす栄光の大絵巻を、力の限り書きつづっていく決意である。正も邪も、善も悪も、勝者も敗者も、厳しく映し出しながら…。」とも記されています。ここでは、池田先生を貶めようとして、世間の人々は勿論、国家権力、日蓮正宗、マスコミ、そして学会内部からの造反者等々が暗躍しました。しかしながら、その結果は後にすべてが断罪され、明確な実証や厳しい現証も示されました。そのことも包み隠さず、後世のために全てを書き残すと言う強い思いを感じました。また、この書を書き始めるにも、場所を考慮しています。それは一九九三年八月六日に長野県軽井沢でした。この地は、戸田先生が逝去する八ヵ月前に、”恩師戸田先生の生涯と精神を、後世に誤りなく伝えるために、私が小説「人間革命」の執筆を決意した、無量の思い出を刻む子弟の誓いの天地”である。また、執筆の日に関しては”この日は、広島に原爆が投下されてから四十八周年にあたる”日であるとも書かれています。先生の、”妙法の力で、何としてもみんなを幸せにする”という、平和に対する願いと執念を感じさせますね。

 

 幾重にも、意味や意義を考え合わせて、命を懸け、命を削っての「新人間革命」の執筆の開始。その冒頭の文は、恩師戸田先生が常に願われた「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」という言葉を胸に、「平和と幸福の大河」の道を切り開くために、いざ世界に旅立たんとする強い決意を感じさせるものです。創価学会は、「今や世界世界192カ国・地域に会員を有し、海外には300万人の会員がいる。」と言われています。振り返ってみれば、戸田先生の慈愛と構想を基に、池田先生が日本から世界への”創価の道”を開拓し広げて行くために、羽田空港から飛び立つこの一瞬こそが、世界広布の”原点”であるという思いを強く感じました。

追伸:このブログを書き始めた時に、奇しくも池田大作名誉会長のご逝去の報を受けました。誠に残念です。深い哀悼の意を表します。長い間のご指導に感謝に深い感謝を致します。”ありがとうございました。”また、池田先生の教えや思想から多くの感銘を受けました。拙い文ですがこのブログは、自分が感じたことを30巻まで発信していきたいと思います。