未読のリストから、コラム・エッセイ・小説をいくつかチョイス。

 

心は孤独な数学者/藤原正彦

天才の栄光と挫折/藤原正彦

藤原正彦の人生案内(読売新聞の連載コラムが元。私は読売嫌いですけれど)

管見妄語常識は凡人の物/藤原正彦

Killing Commendator (邦題 騎士団長殺し)/村上春樹

The Holy Bible (いわゆる聖書)

 

私はキリスト教徒ではないし、特定の宗教に帰属する気はないです。9歳くらいから浄土真宗のジャーナルは読んでいましたけどね。しかし今日、タイムラインで見かけた聖書からの引用にびびっときました。外から人間の体に入ってくるものに、有害なものはひとつもない。というイエスの発言でした。これはかなり衝撃だった。「イエスよ、お前、そんなことまで知ってたのか?」という感動。宗教を学ぶ目的は雑談の材料と、人格の完成の2つです。英語のスタンダード版が無料だったので、kindleに入れました。

 

 

ゲームなどで、英語で異文化の人と話していると、「独学でそんなに喋れるのか!」という点で一つ。「英語版のバイブルを全部読んだのか!」という点で一つ(そんな日本人はまずゲーム界にはいない)。加点方式で得点をガンガン稼げるのですよ。すると簡単に仲良くなれます。向こうは人間を評価する場合、減点方式ではないからね。日本人が絶滅危惧種なのは常識であり、美しい発音や文法で英語を操れる日本人はさらに珍しいのです。英語を磨き、彼らの文化圏の本をしっかり味わって読んでいると、異文化交流の際のアイスブレイクの難易度が下がります。これを希少価値と言います。日本人はちょっと英語が話せるからと言って、外国人が鬼滅の刃の話題を提供してくれることに甘えてはいけません。こちらから相手をもてなしてあげることが重要なのです。汝が与えよ。日本人はもうほとんど男も女も自分がもてなされて当たり前だと思っているクズばかりですから、正直相手をしたくないんですよね。海外の若い学生とゲームでもしていた方が、相手が日本人を色眼鏡で見ている限り、こちらのサービスを喜んでくれるので、もてなしがいがある。俺は黙っていて当然だ。お前がもてなせ。俺に話を振れ。こういう日本人は本当に腐るほどいます。最大限にオブラートに包んで彼らを表現しましょう。ゴミ共です。

 

この心理は、関西人の集団が東京から来た客人を笑わせることに突然コミットし始めるアレと似ています。僕が笑い上戸だと察知するや否や、集団で巧みにフリ合って、絶妙なパスをつなぎながら僕から笑いを取りに来るのです。挨拶もそこそこに、「いやぁ、大阪駅について感動しました。だって改札の駅員さんが、大きな声の関西弁で接客してましたからね!」などととぼけたことを言えば、もう準備万端です。向こうは息をハァハァと荒げ、即座に臨戦態勢になります。「コイツの腹筋は俺が壊す」という気持ちをセットする瞬間が目に見える様です。アドレナリンが満ちてくるのです。このように、与える喜びを知っている人は、先んじてオープンな態度を表明することで、幸せな空間を作り出すことができるのです。

 

 

 

久しぶりに長編もあるから、かなりの時間をつぶせるはず。

鬼滅の刃は3日間合間を縫って、全部読みました。北斗の拳を思い出しました。クオリティの高いヒーロー物ですね。北斗の拳よりは、個人より集団の方に意識が置かれている感じがありましたけどね。セリフなんかは見事なもので、脚本家が漫画描いたのかなと思うくらい見事でした。そのうち動画で語ろうかと思っています。

 

ここまでくると、第一部はgame over。鳴りやまぬ🚑の説明が十分につく。

 

 

経済再開の際、供給のための人材が不足

➡強制インフレ

➡経済崩壊

 

3~5年以内のスパンで経済安全保障は危機的状況に。

科学的なデータを基にした議論はすでに不可能。

短期的な啓蒙活動はもう意味がない。

すべては長期。最低でも10年20年先を考えた行動を取らざるを得ない。短期的な利益に目がくらんだ人から人間でなくなっていく。

 

OZとNZは共産社会に落ちている。ようやく長い戦いが始まった。その代わり、平和の時代は終わった。

人の成長を時間と数字ベースで見ていると、心の底から「金も時間も、概念ごと全部無くなればいいのに」と思う。人の優劣を見たり、過去の自分と今の自分の優劣を思う毎日は、最初の何年かは、とても楽しい。けれど飽きる。順位付けはむなしい。何も生まない。能力を比べても、飲める水は作れない。

 

コストをかければ能力はつく。周りと自分の能力を比べて、「ほら、自分は優秀じゃないか」とやれば、これまでの紆余曲折を肯定できる。仮説を立てて検証し、自分が思った通りの結果が出るまで改善する。するとそのうち「ほら、俺の思った通りだった」。

 

だけど、これには限界がある。毎日のコーヒーでカフェイン耐性がつくのと同じで、変化や能力の向上に感動しなくなってくる。今では人を見れば、はっきりとわかる。「この人は目標まで半年以内」「この人は部分的なアドバイスだけでいい。3か月で週間をつくったら自立できる」。そしてそれは当たる。本当に当たる。インチキのように当たる。それは修行の成果である。でも、タネがわかった手品はもはや手品ではない。ただの技術だ。職業能力だ。そんなもの俺じゃなくても、コストさえかければできるようになる。それが運の問題だということも気づいてしまったし、どうしようもない。

 

プロはいろんな人を見るから、誰にでも対応できるところに優位性がある。中学校から学校に行ってないとか、70歳で新たな趣味でとか、そういう人にでも確実に成果を出させる能力がある人間だけがプロを名乗れる。

 

今日もやっぱり、タイトルに書いたことがすべてだ。他人に対する知的な優位性とは、単にどれだけ知性の向上に資する行為にコストをかけてきたかの総和だ。お金をかけて、時間をかければ良い。テキストを買って、丸暗記するまで音読すれば良い。それが勉強の本質であり、最短ルートだ。閾値もちゃんとある。例えば300文を日英対訳で丸覚えするなら、1日1時間、2か月程度が必要だ。これは必要経費。これより少ない時間だと、成功率は目に見えて下がる。誰がやっても、下がる。国語の偏差値や暗記済みの英単語数にも左右される・・・が、それは誤差の範囲だ。学習時間やメニューを組んでその経過を測定しているプロだけが、詳しくそれを知っている。こういう原理原則なら、受験やスポーツを人より頑張った大人は、実はみんな知っていることだ。才能とは結局家庭環境のことだなんて、教育ビジネスの人間は口が裂けても言わない。僕が感じている問題の本質は親ガチャ問題なのだ。本当に面倒な性格である。

 

 

子どもは「はぁ~生まれるのかったりいなぁ。おっ、この親は年収が2000万、趣味は料理、家に猫と犬が2匹ずつ、20年以内の家庭崩壊リスクはゼロ。まあ、ここなら生まれてやってもいいかな。どうせ生まれても死ぬけど」なんて調子で生まれてくるわけではない。子どもが生まれてくる前に、薬物の誤用で父親が亡くなっている家庭も日本には存在する。人間のスタート地点は平等ではない。だから実力主義は、実はケダモノの論理だ。

 

さて困った。ここまで見えていると、もはや自分が教育を根底から破壊する発明をするしかない。誰にも文句を言えないからだ。実際に文句のような独り言を言ってみたら分かった。「文句言うな。お前、なんにも変えようとしてない癖に」という声が聞こえてきたからだ。本当に面倒な性格である。

 

今の世の中は、言語の運用能力の低い人間を徹底的に排除する。そして、金のある人間が雪だるま式に更なる金を得られるように設計されている。なんだかそれが許せない。本当に面倒な性格である。

 

 

県内の検査数がそもそも24件で、ものすごく少ない。では別日はどうかというと、14日94件、15日95件に対し、10日3件、11日2件、12日3件。

おいおい、どういうことだ?ばらつき激しいなと思い、月別データを見ると3月が251件に対し8月が12627件。やはり異常なばらつき。一定の検査数で年がら年中やっているわけではないらしい。それどころか3月8月を比較すると、検査数だけで50倍もの差がある。圧倒的なまでの不自然さだ。

 

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/158373.pdf

 

 

これは電凸案件だ。なぜこんなにも検査数自体にばらつきがあるのか。異常だ。

 

 

上記HPより先住民食の9原則を抜粋

  • 甘いものは何であれ、一切摂らないこと
  • 白米や精白小麦で作られたパン、麺類など、糖質の多いものはなるべく控えること
  • 加工食品、インスタント食品、保存食品、ファストフードなどの摂取をなるべく控えること
  • 植物油の摂取をなるべく控えること
  • 牛乳やヨーグルトは摂るとお腹がゆるくなる人はこれを避け、バターやチーズは積極的に摂ること
  • タンパク質、特に動物性タンパク質を積極的に摂ること
  • 新鮮な野菜を適度に摂ること
  • 動物性食品と植物性食品の摂取比率は、なるべく7:3にすること
  • タンパク質、脂質、糖質の摂取比率はカロリーベースで4:4:2になるようにすること
食事的には私は問題だらけらしい--: 
私は仕事がらセルフ人体実験が好きなので、これは近いうちに一定期間実施すると思う。

20代男性のみなさん、病気知らずの健康体ならワクチンをうつ選択肢はあり得ません。30代も同様です。10代なんてもってのほか。日本のおっさん、じいじ、おばさん、ばあば達は集団催眠状態です。+TVやYOUTUBERたちの報道に違和感を感じない人たちも、世代を問わず催眠状態です。TVが問題というより、TVやYOUTUBEを主戦場の一つとしている広告会社が問題です。

 

 

 

 

 

ワクチンは人体に一切必要がありません。内海聡著の「ワクチン不要論」をはじめ、ワクチンは体に毒であると主張する本は探すと結構出てきます。これらの本に共通するのは、統計弱者に優しい丁寧な情報提供です。「どのタイミングの統計を基にしてワクチンが有効だと主張しているか」という論理を詰めて詰めて考える視点を提供しています。

 

↓ これね

 

 

 

 

 

これとか

 

私も別に、打ちたい人は打てば?と思っていましたが。ちょっと無視できないですね。読んで知ってしまうと、もうアップデートせずにいられないんです。どっちかっていうと性善説だからかな。目の前でアイマスクして崖から落ちようとしている人がいたら、止めるでしょう?そういう感覚です。「本当にもうお願いだから」と。バカの壁は存在しますが、そういう問題じゃないんですよ。もうね。

 

 

 

 

※3000字の寄稿です。

 

優秀な国際人を養成したければ、英語を義務教育から外そう。プログラマーを育てたければ、義務教育中の国語および算数の授業時間数を増やそう。 国際人という言葉は、あまりにも長らく顧みられずに、一人歩きしてきた。そろそろこの言葉を精査するのが良いころ合いだと思う。

 

 国際人を養成するのに、義務教育の時点で英語という科目は必要ない。一種のスポーツや芸術として、部活動としてスピーチクラブなどを用意するくらいのものでよい。もう少しお節介なことを書く。日本では平成10年から英語が中学校で必修科目になったが、これは日本の国益を大いに損ねかねない失策だったのではないか。私はそう思う。理由は簡単だ。英語を学ぶ時間を確保するようすべての児童生徒が国家に強制されると、英語を使って世界に発表すべき内容に割くことのできる時間が減る。英語は表現手段の一つに過ぎないため、カリキュラムに英語を入れることで、英語で発表はできるようになったが肝心の内容の独自性や価値が失われた、という事態を招くリスクが、必修化以降の世代で、英語の必修化によって高まったことを意味する。 (※戦後70年以上を経て実践されてきた英語カリキュラムだが、コロナ禍でFDAやCDCのHPを参照して事態の最新情報を自発的に得る日本人の数が限りなく0に等しいことは、2021年7月にツイートしている。もちろん、英語で情報収集できるということは国際人の定義に必ずしも必要ではないかもしれないが)

 

小学校や中学校のカリキュラムとはなにか。単に、一年に315時間の英語の授業を受けることを、子どもたちに強制するものだ。国語は350時間、社会は295時間、数学は315時間...などとして、どの教科のために1年間に学校では何時間使う、ということを決めているのがカリキュラムである。 

 

戦後は教育が変わった。教育のルールや思想が変わったのだ。しかし、ルールや思想を一新して終わりではなかった。まるで遅効性の毒が体内に回るような、ゆっくりとした変化が今でも日本で起こっている。変化の中心にあるのは英語である。昭和33年の時点では、小学校に英語の教科は存在しなかった。しかし2020年の教育改革では、小学校5,6年生の2学年で合計140時間が捻出された。プログラミングや経済も、英語と同じようにカリキュラムに組み込まれる。昭和33年と比べると、そもそも小学校6年間の総授業時間数は平成10年までに454時間も減っている。世界的ではこういうものを愚民化政策と呼ぶ。 

 

アメリカの教育改革にこんな逸話がある。タイプライターが出てきた時代のことだ。アメリカの社会人はみなタイプライターを使う。だから高校生にタイプを教えれば、労働の生産性は向上する。ならば少し国語や数学の時間を削って、タイプを教えよう。こういう論理で改革がなされた。結果はひどいもので、確かにタイピングの速度は向上したのだが、肝心のスペリングがおろそかになり、タイポが増えたという。誤植が増えればタイピングが早くなっても校正に時間がとられることになるため、生産性はプラマイゼロだ。あなたはこの話をお笑いになるだろうか。しかし我が国日本にとって、この悲劇は対岸の火事ではない。全く同じことが現在進行中なのだから。進行中どころか、一段落してリビングで一服しているくらいだ。タバコを取り上げる必要はないが、よく考えさせる必要はあるかもしれない。 

 

国際人を一人でも多く作りたければ、まず英語をカリキュラムから削除せよ。優秀なプログラマーを作りたければ国語と算数の授業時間数を増やせ。これらに加え、教育に国民の能力を高める役割を果たさせたいとき、その質をよくよく考える必要があるということを前述した。もうひとつ触れておきたいポイントがある。人的資源制約と時間的制約についてだ。 

 

 

長らく小中学校の教育現場では、教員たちの労働環境が悪いことが指摘されてきた。業務過多、1日2時間以上の残業が広く常態化してきているということで、教師たちには子どもに親身になってやれるほどの体力的および時間的な余裕がない。これは多くの場合、人が足りないという観点で問題提起をされることが多い。だが、実際は減少した授業時間数がその大きな原因である。教育格差は経済的な観点から語られることが多く、公教育制度の根本的欠陥を疑う声は少ない。メディアとしてはこれを貧富の差としてのみ報じるほうが、ルサンチマンを誘いやすいからだろう。 

 

 

昭和33年から平成10年にかけて、小学校の総授業時間は454時間減少した。中学校は昭和44年から平成10年にかけて545時間の減少だ。つまり6歳から15歳までにかけて、合計で999時間、学校で授業を受ける時間が減った。これは学習時間の減少のみならず異年齢間のコミュニケーションの時間も減少させた。私が改革の権利をこの手に握ることがあるなら、この999時間を国語と算数と昼寝または読書および外で遊ぶ時間に充てる。カリキュラムの達成度を変えずに授業時間数を膨大に増やすことで、進捗についていけない子どもたちの支援に尽力するだろう。多様な異年齢間対人コミュニケーションを質および量の両面で求めている子どもは多い。というより、授業時間数の削減によって、そういったニーズが満たされなくなった。 

 

 

考えてみてほしい。家庭によっては、学校の教師は最も身近な大人のうちの一人である。両親と教師しか、異年齢のコミュニケーション相手が日常にいないという家庭すらあるだろう。

 

想像してみてほしい。親は共働きで忙しく、1日に2時間も子どもとの会話がない。

 

教師は毎日異常な残業で疲弊しており、とても仲良くできるような空気感ではない。そんな中、我が国の子どもたちに足りないものはなにか?英語の早期教育だろうか?それともプログラミング教育だろうか?否、コミュニケーションそのものである。子どもが身近に信頼できる大人を獲得することが、そもそも難しい状態が、小中学校のカリキュラムの変化によって作り出されたのである。先生が嫌いで勉強も嫌いになったという子どもは多い。 量も質も、突き詰めて考える時が来ている。それぞれを独立した概念だととらえていては、何も解決しない。昇華する必要がある。

 

 

質と量は相互作用する。量が質を支え、質が量を助ける。

 

 

授業を受ければ知識が身につくのは、それだけの知的好奇心や読解力をはじめとするコミュニケーション能力を、授業の時点で備えている子どもだけである。授業を受けたその場で理解できることが多ければ、学校の帰り道にそれを思い出してあれこれ考えたり、帰宅後に家族と分かち合ったりすることができる。だが授業についていけない、教師にも適切に支援してもらえないという場合、授業の内容は分からないままであり、教師との関係も縮まらない。コミュニケーション能力に長けている子どもは父母と幼少期から良質なコミュニケーションを取ってきた場合が多く、意思疎通のプロセス自体に慣れている傾向がある。そんな子ども同士は友達関係を作りやすいだろう。「ねえねえ」と一番槍で誰かに話しかけられるのは、今や立派な能力の一つに分類される。会話を始めることができれば、以降はそこに情緒や論理的整合性が自然にコミュニケーションの要素として絡まるため、まずは仲の良い人を作り出す能力をもつことが、子どもの発達に重要であることは明らかである。それを子どもに持たせることができるのは、安定した人間関係という環境なのだ。時間がない、人材がない、という状態では、子どもは育たない可能性が高いのである。それは20年後の国家にとって最大のリスクだ。 

この記事を読んだので。

感想は単純です。

 

1.髪型くらいで学校はギャーギャー抜かすな。というより学校なくなれ。誰も困らないから

2.多様性という言葉は手垢にまみれていてhate it so much

3.いきなり超少数派の外国人にとって完璧な日本になるとは思ってはならない

3.5 日本人が海外でどれだけ/どのように差別されてきたか知ってね

 

 

 

3の補足としては、そもそも日本に適応しきる外国人は圧倒的に少ないから、多様性とかいう言葉を使って都合よく問題提起するのではなくて、当事者同士で話し合って外国人が不満に感じることがあったら、都度騒ぎを大きくして、周りの日本人を味方にすればよい。この場合、その当事者に正義がなく人望もなければ厳しいのですが、それは外国人に限った話ではない。日本人同士のマジョリティ・マイノリティ間にも同じ構造は当てはまります。別に、問題を社会で克服しようとしているのは外国人だけではないのだから。

 

 

4も単純です。大東亜戦争時代にアメリカ西海岸やハワイに移住した日本人を描いた小説(Picture Bride/Yoshiko Uchida著)。この作品を、以前紹介した内村鑑三の余は如何にキリスト教徒になりしか と併せて考えればわかるでしょう。差別が生まれる構造については文学作品だけでは不十分ですが、経済の知識と共にこれらを結びつけることができれば、必ずその人の力になるでしょう。ピクチャブライドは英文なので、英検2級程度の実力をつけてから、英英辞書を片手に挑戦してみると良いです。

 

 

 

 

 

一言でいうとアメリカは赤ちゃん国家(新参者で卑怯なクソガキ)なので年次要望書的な干渉などは一切無視してよろしいということなのですが...。

 

 

2については「多様性を大事にするのは素晴らしい!」という人なんて本気では存在しない、と思っているので、やはり説明を端折ります。多様性などいちいち言語化しなくてはいけないほどの概念ではない。国内にはびこる広告利権に利用されて終わりです。

 

 


 人々の間でこれまでに奪われてきた命は、すべて言葉がその原因を創っていた。聖書にある知恵の実が忌まわしいもので、神が人間に食べることを禁じていたのはそのためだ。智慧の実を食べれば死ぬ。だから食べてはならない。神はそう戒めていた。神が人間に智慧の実を禁止していたのは、別に、神にとって食べられたら不都合だからという理由ではない。神は本当のことを言っていたに過ぎない。言葉によって、死は作られる。これは単純に原理原則の話であり、自明の理を喋っただけの話だった。言葉なくして死を理解することは、じつはできない。まあ、君の知っている通りだ。


 どのように例えたらいい?言葉とは死の球根のようなものだ。そして、死は果実のようなものだ。え?種ではいけないかって?まあ、種でも良い。おい。それが分かっているなら、わざわざ君にこれ以上説明するまでもない。何といっても、説明しだすと長い。長くならざるを得ない。ともあれ最も重要なのは、この球根と、それが未来につけることになる果実とは、一対のペアだということだ。死があるためには言葉がなければならない。だから言葉が無ければ、死は存在しえない。何かが死ぬ瞬間を目撃していれば、その過程が印象的だったらという条件つきで、死の瞬間を夢にみることはあっただろう。それは死の存在とは、また少し違う話だ。わかるかな?


 この原理原則は、まだ見直しの余地が多い。わかりやすい例を挙げるとすれば、そうだな。まず不確かなことは、人間同士の争いが、言葉を奪うことでなくなるか?という命題の答えだ。これは想像の及ぶ範囲を少しだけ逸脱している。人間が家畜を殺すことはあるだろう。それは認めよう。ここで問題なのは、人間同士のことだ。人間が動物を殺す場合は、今回はカウントしない。しかしその条件をつけたとして、言葉のない生活を誰も送ったことがない。だがひとまずそういう人が居たとしよう。地球のどこかにはある程度いるのだろう。それは分かる。しかし今ここにはいない。この場にはいない。というわけで誰も経験がないのだから、断定はできない。この場には少なくとも、断定するだけの経験をした人が居ない。だから想像すらつかない。いや、つかないというのは不誠実な言い方だ。つまり、数日間の言葉の無い生活を想像することは不可能ではない。けれど、人の一生を考えようとすれば、どこかでその想像は青空か雨雲にでも吸い込まれてしまう。え?もみじ通りの石畳には吸い込まれないか?別にもみじ通りでもいいが、あそこは秋の銀杏があまり好きではないしな。まあそれはいい。それに、想像すると言っても、すでに智慧の実を食べてしまっている我々が、新たに一言もしゃべらない生活を始めて、都合よく数日間うまくいった時の成り行きを思い浮かべる程度だ。言葉が無いなら単位もない。記号も無い。矢印くらいは有効かもしれないが、矢印を許すと読み方を声に出したくなる気がするから、やはり矢印も規制の対象になるだろう。話がごちゃごちゃしてきたな。もういいだろう。言葉が智慧の実で、智慧の実は死をもたらす。それに対する見解については、ここで終わりだ。
 

↑を考えるための材料をメモがてら置いていきます。

 

 

世界で最も厳しい水準のワクチンパスポートを導入して1か月が経ち、マスク義務化が復活してから2週間が経過したばかりのリトアニアでは、新規感染者数は急上昇してきている。

 

「専門家たち」の能力は全く目を見張るものがある。といっても、失敗を倍々に増やしていったり、現実逃避をしたりという能力だが。(2021年10月14日23:25 ブログ筆者訳)

 

 

グラフ←の方にINITIAL MASK MANDATE とありますね。最初のマスク義務化です。続いて2回目のマスク義務化。その後感染爆発(といっても問題だらけのPCR検査の陽性者を数えたインチキ感染者でしょ?とすぐに思われたあなた、very nice ! )がマスク義務化にも関わらず起きています。

 

ところでOne month into  という表現はinto の直前に時間を伴うことで○○経過したところで、という表現です。「試合開始わずか5分でゴール!」とかいう実況をサッカーで聞く場合、5 minutes into ... と実況解説が言いますね。スポーツファンにはおなじみの表現ですね。