※3000字の寄稿です。
優秀な国際人を養成したければ、英語を義務教育から外そう。プログラマーを育てたければ、義務教育中の国語および算数の授業時間数を増やそう。 国際人という言葉は、あまりにも長らく顧みられずに、一人歩きしてきた。そろそろこの言葉を精査するのが良いころ合いだと思う。
国際人を養成するのに、義務教育の時点で英語という科目は必要ない。一種のスポーツや芸術として、部活動としてスピーチクラブなどを用意するくらいのものでよい。もう少しお節介なことを書く。日本では平成10年から英語が中学校で必修科目になったが、これは日本の国益を大いに損ねかねない失策だったのではないか。私はそう思う。理由は簡単だ。英語を学ぶ時間を確保するようすべての児童生徒が国家に強制されると、英語を使って世界に発表すべき内容に割くことのできる時間が減る。英語は表現手段の一つに過ぎないため、カリキュラムに英語を入れることで、英語で発表はできるようになったが肝心の内容の独自性や価値が失われた、という事態を招くリスクが、必修化以降の世代で、英語の必修化によって高まったことを意味する。 (※戦後70年以上を経て実践されてきた英語カリキュラムだが、コロナ禍でFDAやCDCのHPを参照して事態の最新情報を自発的に得る日本人の数が限りなく0に等しいことは、2021年7月にツイートしている。もちろん、英語で情報収集できるということは国際人の定義に必ずしも必要ではないかもしれないが)
小学校や中学校のカリキュラムとはなにか。単に、一年に315時間の英語の授業を受けることを、子どもたちに強制するものだ。国語は350時間、社会は295時間、数学は315時間...などとして、どの教科のために1年間に学校では何時間使う、ということを決めているのがカリキュラムである。
戦後は教育が変わった。教育のルールや思想が変わったのだ。しかし、ルールや思想を一新して終わりではなかった。まるで遅効性の毒が体内に回るような、ゆっくりとした変化が今でも日本で起こっている。変化の中心にあるのは英語である。昭和33年の時点では、小学校に英語の教科は存在しなかった。しかし2020年の教育改革では、小学校5,6年生の2学年で合計140時間が捻出された。プログラミングや経済も、英語と同じようにカリキュラムに組み込まれる。昭和33年と比べると、そもそも小学校6年間の総授業時間数は平成10年までに454時間も減っている。世界的ではこういうものを愚民化政策と呼ぶ。
アメリカの教育改革にこんな逸話がある。タイプライターが出てきた時代のことだ。アメリカの社会人はみなタイプライターを使う。だから高校生にタイプを教えれば、労働の生産性は向上する。ならば少し国語や数学の時間を削って、タイプを教えよう。こういう論理で改革がなされた。結果はひどいもので、確かにタイピングの速度は向上したのだが、肝心のスペリングがおろそかになり、タイポが増えたという。誤植が増えればタイピングが早くなっても校正に時間がとられることになるため、生産性はプラマイゼロだ。あなたはこの話をお笑いになるだろうか。しかし我が国日本にとって、この悲劇は対岸の火事ではない。全く同じことが現在進行中なのだから。進行中どころか、一段落してリビングで一服しているくらいだ。タバコを取り上げる必要はないが、よく考えさせる必要はあるかもしれない。
国際人を一人でも多く作りたければ、まず英語をカリキュラムから削除せよ。優秀なプログラマーを作りたければ国語と算数の授業時間数を増やせ。これらに加え、教育に国民の能力を高める役割を果たさせたいとき、その質をよくよく考える必要があるということを前述した。もうひとつ触れておきたいポイントがある。人的資源制約と時間的制約についてだ。
長らく小中学校の教育現場では、教員たちの労働環境が悪いことが指摘されてきた。業務過多、1日2時間以上の残業が広く常態化してきているということで、教師たちには子どもに親身になってやれるほどの体力的および時間的な余裕がない。これは多くの場合、人が足りないという観点で問題提起をされることが多い。だが、実際は減少した授業時間数がその大きな原因である。教育格差は経済的な観点から語られることが多く、公教育制度の根本的欠陥を疑う声は少ない。メディアとしてはこれを貧富の差としてのみ報じるほうが、ルサンチマンを誘いやすいからだろう。
昭和33年から平成10年にかけて、小学校の総授業時間は454時間減少した。中学校は昭和44年から平成10年にかけて545時間の減少だ。つまり6歳から15歳までにかけて、合計で999時間、学校で授業を受ける時間が減った。これは学習時間の減少のみならず異年齢間のコミュニケーションの時間も減少させた。私が改革の権利をこの手に握ることがあるなら、この999時間を国語と算数と昼寝または読書および外で遊ぶ時間に充てる。カリキュラムの達成度を変えずに授業時間数を膨大に増やすことで、進捗についていけない子どもたちの支援に尽力するだろう。多様な異年齢間対人コミュニケーションを質および量の両面で求めている子どもは多い。というより、授業時間数の削減によって、そういったニーズが満たされなくなった。
考えてみてほしい。家庭によっては、学校の教師は最も身近な大人のうちの一人である。両親と教師しか、異年齢のコミュニケーション相手が日常にいないという家庭すらあるだろう。
想像してみてほしい。親は共働きで忙しく、1日に2時間も子どもとの会話がない。
教師は毎日異常な残業で疲弊しており、とても仲良くできるような空気感ではない。そんな中、我が国の子どもたちに足りないものはなにか?英語の早期教育だろうか?それともプログラミング教育だろうか?否、コミュニケーションそのものである。子どもが身近に信頼できる大人を獲得することが、そもそも難しい状態が、小中学校のカリキュラムの変化によって作り出されたのである。先生が嫌いで勉強も嫌いになったという子どもは多い。 量も質も、突き詰めて考える時が来ている。それぞれを独立した概念だととらえていては、何も解決しない。昇華する必要がある。
質と量は相互作用する。量が質を支え、質が量を助ける。
授業を受ければ知識が身につくのは、それだけの知的好奇心や読解力をはじめとするコミュニケーション能力を、授業の時点で備えている子どもだけである。授業を受けたその場で理解できることが多ければ、学校の帰り道にそれを思い出してあれこれ考えたり、帰宅後に家族と分かち合ったりすることができる。だが授業についていけない、教師にも適切に支援してもらえないという場合、授業の内容は分からないままであり、教師との関係も縮まらない。コミュニケーション能力に長けている子どもは父母と幼少期から良質なコミュニケーションを取ってきた場合が多く、意思疎通のプロセス自体に慣れている傾向がある。そんな子ども同士は友達関係を作りやすいだろう。「ねえねえ」と一番槍で誰かに話しかけられるのは、今や立派な能力の一つに分類される。会話を始めることができれば、以降はそこに情緒や論理的整合性が自然にコミュニケーションの要素として絡まるため、まずは仲の良い人を作り出す能力をもつことが、子どもの発達に重要であることは明らかである。それを子どもに持たせることができるのは、安定した人間関係という環境なのだ。時間がない、人材がない、という状態では、子どもは育たない可能性が高いのである。それは20年後の国家にとって最大のリスクだ。