目下、武市半平太にとってじゃまっけだったのは

土佐藩家老?、吉田東洋だった。

 

この文久二年、

土佐の中心人物、山内容堂は江戸、鮫洲藩邸で日がな一日

酒を飲んだくれていた。

 

「わしらは土佐藩を牛耳るがぜ」

 

これが土佐勤皇党の首魁、武市半平太のもくろみだった。

つまり、

「じゃまっけ」

…吉田東洋様だ。

おかげさまで、俺様は土佐藩を牛耳れないぜ。

ゆえに、やつを斬る。

というむちゃくちゃな論法で、東洋暗殺計画をねっていた。

 

武市が選んだ剣劇の達人は三名。

 

那須信吾

安岡嘉助

大石団蔵

 

ここのところで、都の情勢が変わってきている。

島津久光公が薩軍三千を率い、上洛するという。

実はこのどさくさで、清河八郎と真木和泉は浪士たちを

手当たり次第にかき集めて、挙兵するという。

説明すると、ここで京をめぐって天下の分捕りあいが

あるわけだ。

 

・薩摩が仕切るか

・勤王党が仕切るか

 

ちょうどこのはざまで、寺田屋事件が勃発する。

西郷はこの寺田屋事件以後、藩論を一枚岩にしていく。

 

つまり武市半平太の描く構想は、

構想というよりも、妄想に近かった。

 

①吉田東洋を暗殺して

②藩政を牛耳って

③俺様が酒びたりの山内容堂を説く

 

山内容堂にあっては

いいねボタンを押すどころか、土佐勤皇党が炎上することは間違いない。

まあ実際に、炎上する。

とりあえず、ヤツらは妄想モードである。

 

 

 

 

 

ここでうんちくを語れば、水戸黄門というのは水戸中納言様という意味。

基本、征夷大将軍は中納言の官位がなくてはなれない。

よって慶喜さんも水戸黄門・慶喜となる。

 

 

この時期の教養本の一つに頼山陽の『日本外史』がある。

 

このくだりを、吉田東洋はお城で解説していた。

 

『信長は臥内にあり、驚き起って曰く、反するものはたれぞ』

蘭丸をして、いでてその旗印をみせしむ。

 

いはゆる、歴史の十八番、『本能寺』のくだりである。

 

『孺子、敢えてしかるか』

つまり、小僧そうくるか?\(*`∧´)/

惟任光秀とな。是非もなし。

 

こんなぐあいだ。

江戸時代の学問というのは浪曲みたいなものである。(`×´)

 

吉田東洋はえんえん、『日本外史』を朗読して、

「御酒を飲んでいた」

酒が旨いぜ。みたいな。

…いや、今宵は肝に響くような講義であった。

 

この日、文久二年四月八日、亥の刻。

糸雨が降っていた。

 

東洋は若党と草履取りとともに、ぬかるみを

避けながら、夜道を歩いていた。

ふいに蓑を着た漢が提灯を切り捨てた。

那須信吾である。

 

「この痴れ者が」

 

「元吉っ、死んでしまえ」

 

那須信吾は刀を振り下ろした。

東洋はそれを傘で受けた。

ざぁーっと傘が切れ、左肩に刀が入る。

 

「なんの遺恨ぞ」

「天誅じゃ」

「だれぞ」

「貧乏郷士じゃい」

 

この二人が切り結んでいるとき、背後から

大石団蔵と安岡嘉助が東洋に斬りかかったという。

大石が「東洋っ」と叫んで刀を背中にたたきつけた。

 

これがまともに入った。ぶっと血を吹き

東洋は泥の中でもがいていた。

「嘉助、首ぜよ、うつがじゃ」

雨とぬかるみで、どこに刀をふりおろしていいのかわからない。

何回か失敗した。

あごの骨とかがぐちゃぐちゃになっていた。

やっと、吉田東洋の首と胴体をきりはなした。

 

「武市先生のとこにもっていくがじゃ」

 

安岡は、ふんどしにその首をくるんでぬかるみのなか

夢中で走った。

武市は

「御執政の首をふんどしにくるむやつがあるか、バカ」

といった。

 

田中光顕はこのくだりに出てくる(昭和十四年没)

那須信吾の甥にあたるらしく、このくだりを自伝として

遺していた。

 

…叔父は後々のことを私に頼むと、引き上げていった。

戸外は春のものうい糸のやうな雨がそそとふってゐる。

その雨の中を叔父はゆうゆうと引き上げていく。

 

彼は最初に武市塾に学び、この後脱藩。十九歳。

高杉晋作に弟子入りしている。

この三年後、田中顕助は大島沖海戦で

どうやったのか不明だが、軍艦をうごかした

『機関は風呂釜とおなじだろう』みたいな

 

この時、竜馬はすでに脱藩して三田尻に入っていた。