地面が揺れることと第1チャクラの揺さぶり | Earth Code~ほしと あなたを つなぐ場所

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真由美です。

 

19日の震災で落ちて割れたので注文し、新しく届いたポット。

 

大きな震災はいくつもあったけど、やはり関西人にとって1995年の阪神淡路大震災は特別なものだったらしく、今回あの時のことを思い出した。

 

ふだん、関西弁じゃないし(かといって綺麗な標準語のイントネーションでもないけど)、ふらふら根無し草のように生きていたせいか「関西人」という自覚はあまりなかったんだけど、地震を通して特別な愛着があったんだなあと気づいた。

 

今回被災にあわれた方に、心よりお見舞い申し上げます。

 

 

当日は地震のあとガスを使おうとしたら点火せず、(地震で元栓止まったのかな?)とスマホで検索したら「震度5程度の地震でロックがかかるようになっている」とあったので、それ見ながら解除して、ほんの数分後にはきちんとガスが使えるようになった。

 

阪神淡路大震災の時は、本当に長田町が空襲受けたみたいに焼け野原になっていて、わたしは震災直後ボランティアでリアルにあの街を歩いていたので、

 

建物の耐震性が強くなっていることも、ガスの元栓に自動的にロックがかかることも、そしてそれを知らなくてもスマホで検索して簡単に解除できることも、前に比べてより安全で便利な時代になったよなあ、と思う。

 

 

今回特に怪我をしたわけじゃないし、ひとりで何とかできるけど

 

それでも(ひとりは寂しいなあ)と、なんか猛烈に哀しさとか寂しさとかそういう感情があふれてきて、ひとり暗い井戸にこもっていた。

 

 

自分の人生のなかでは最もストレスなくやりたい勉強のために時間とお金が使え、仕事もある程度それに合わせてでき、(むしろ、この年でこんなに好きなことに集中できるのは独身だからだな)とは思っていた。

 

でも、「いざという時、頼れる誰かがそばにいる生活がいいなあ」というのも本音にあったんだなあ、と隠していた気持ちが、地震によって噴出し、まざまざと見せつけられた気がした。

 

 

その後、ある人に「1週間前くらいに旦那さんと(ものすごくくだらないことで)喧嘩して(というより、ダンナ逆ギレしただけ)実家に帰っていたんだけど、地震の時も特に連絡もなかった」という話を聞き、発作的に「え?!そんなダンナ、要らなくない??」と口をついて出る。

 

「いざという時にそのくだらない感情とかプライドを優先して、奥さんや子どもの心配もできない、電話のひとつすら入れないような男のひと、無理だわ~…。寂しくて泣くわ―。こないだはひとりだから泣かなかったけど」と言ったら

 

その人には小さなお子さんもいるし「わたしにも悪いところがあったし、ダンナさんもかわいそうな人なんですよ~」と言ってて、(わたしに足りないのはこの包容力かkonatuayaしかし、いざじゃない時にはくだらないプライドで訳のわからんキレ方をし、いざという時にすら役に立たない男と一緒に居れるだろうか。否、居れない(反語))とか考えていて、

 

ひとりでいて寂しいのと、2人でいて寂しいのとどっちがマシか?と聞かれたら、前者だな。。。。

 

しかし、その2択しかないのだろうか?じんせいは・・・・。

 

と思ったり終わった

 

 

 

結局、「いいこと」も「わるいこと」も表裏一体で、単純に善悪のジャッジはできないということと、どんな出来事もギフトにもなれば、やさぐれるための材料にもなる。

 

持っていることであるしあわせとふしあわせ、

 

持っていないことであるしあわせとふしあわせがあり、

 

それぞれその立場だから生まれる「執着」がある。

 

どの「感情」と「思考」を選ぶかは自分次第で、決断して行動するしかないのだなあ…。

 

 

 

 

この1週間、ふだん住んでいる地面が揺れると、そこに共振して第1チャクラが揺さぶられるのかもなあ、と感じながら過ごしていた。

 

 

その土地に愛着があったり、特別な感情があればあるほど、ダイレクトに被害に合う合わない関わらず、自分の根源的な生きるための欲望や、どれだけグラウンディングできているのか、またどれだけ自分が不安定でいるのか?があらわになるのかもしれない。

 

それまで心の奥底に埋め、無かったもの・気づかないフリをしてきたものが、大地が割れて内部があらわになるように、まじまじと見つめ続けないといけないような気持ちになるのかも。

 

ほぼ震源地に住んでいる知人が、「目の前の道路が割れて、埋まっていた水道管から噴水みたいに水がばーって出てて、でも3日くらいガスも水道も使えなかったの。そこに水はあるのに、水がなくて、笑ってしまった」と言っていたのが印象的だった。

 

 

そこに無いものは、どれだけ地面が揺れようが出てくることはない。

 

「ある」のに「ここにない」から、感情が揺さぶられる。

 

そして、それを見つめ、手に入れるための「行動」をし続けることが、地に足つけて生きるということなのかもしれない。