*母の記録*

 

2018年3月

3月上旬

東京にいるいとこの結婚式に出席したり、友達の家に泊まりに行ったり、高校の友人と蓼科へ旅行に行ったり

母校へ大学進学の報告をしに行ったりと、あっという間に1ケ月が過ぎました。

 

 

友人と行った蓼科旅行

 

 

3月27日

日赤最後の診察

依頼をしておいた東京の虎ノ門病院の血液内科へ渡す書類を預かり

息子からは自書のバンブーガールを先生に渡し、最後の診察を受けました。

主治医はとても心配して一年休学した方がいいと言われました。

今回の入院で東京で一人暮らしして健康管理していくことは無理ではないかと思いました。

病院も今みたいに徒歩3分というわけにいきません。

後押ししたのは主人です。

息子の夢をかなえるため小説家をめざすなら日芸しかないと勧めたのも、

息子の夢を一番応援しているのも間違いなく主人です。

心配でしたが思い切って上京させることにしました。

 

 

*僕の記憶*

 

 

闘病が始まって5年

これまで何人もの友達がお見舞いに来てくれたり、

遊びに来てくれたりして

その度に本当にありがたく、嬉しいと思っていたけれど、

心のどこかでは、僕はずっと負い目のようなものを感じていた。

 

 

自分だけが世界から取り残されていて、

この人たちはそんな自分にわざわざ会いに来てくれている。

ボランティア精神の旺盛な人間なのだと。

 

頭ではそんなことないとわかっていながらも、

信じきることはできない。

そこには目に見えない傾斜があるんじゃないかと、

胸の内ではずっと思っていた。

 

 

それを僕は

醜いことだとは思わない。

むしろ自然なことだった。ただ、

自分はその負い目を抱えて生きていく可能性があったし、その態度が本質的には間違っているということにも気づいていた。

それでも友達が去っていった後の病室で僕はいつもモヤモヤを感じていた。

 

 

だから大学生になれるとわかって行ったこの旅行は

本当の意味で僕がやっと友達と対等になれたと胸を張れた瞬間だった。