*母の記録*
2015年8月21日
<day+436>
ベッドの上で過ごすことが多かった息子ですが、筋力の衰えもありリハビリは必須です。
気分の悪いときはベッドで、気分のいいときは病棟を歩く。
ある日院内を車椅子で散歩していた時、リハビリ室を見つけました。
気分転換にもなるかとリハビリ室でのリハビリをお願いしたところ許可が出ました。
*僕の記憶*
長い間入院するにあたって直面する問題には、紛れもなく二種類がある。
一つは短期型で、一番わかりやすいところで言うと痛みと感染症。痛みは鎮痛薬で対処できる部分があるけど効きが悪くなっていったりするし、感染症も敗血症とか本当に死に直結する問題もあって油断ならない。
もう一つは長期型で、その最たるものが筋肉の低下だと思う。
(そのほかに人間関係の断絶、貯金の枯渇などがあると思う)
筋肉の低下は、長期型問題の中では多分、割と対処しやすい方だとは思う。
人間関係も貯金も入院している身ではどうにもならないことがあるけど、筋肉は強い精神力があれば維持できるからだ。
強い精神力があれば。
そんなもの僕にはなかったし、何より僕は筋トレとか運動とかそういう類のことが中学校の頃かがガチで苦手だった。
けど、
それとリハビリが辛かったことはあんまり全然関係がなかったなと、今になって思う。リハビリの辛さは、筋トレの辛さとは次元が違った。
この頃の僕は、まず、しゃがむことができなかった。
移植という過酷な環境下で、あまりに長い間ベッドの上で過ごしたせいで、足の筋肉が本当に衰え切ってしまったのだ。
しゃがもうとすると、途中で膝が折れて、そのまま骨盤から地面にストンと落下する。そういうことが、確か三度あった。どれも完全に腰を打ったというより、しゃがむ、あるいは歩く途中で膝のロックが効かなくなり、腰が落下することを止められなくなった、という言い方の方が近い。
だから、一人で歩くことがまず困難だった。
不可能ではないけれど、トイレに行く時でさえ、必ず看護師をつけてと言われていた。僕自身も、怖かった。
ただ歩くというごく当たり前の行為が、真の意味での冒険だった。体幹もすり減っているため、手すりがなければそもそも直立するバランスを保てなかった。
自分で移動ができなくなると、車椅子に乗って運ばれることになる。それが余計に、筋力の低下を助長するのだ。
それは、普通に生きている若者がおよそ経験することのない不自由さであり、
同時に、
年齢を重ねた人間全てが等しく感じる不自由さなのだと、その時にやっと気がついた。
高齢者と自分を切り離して考えられなくなったのは、その時からだ。
思えば、街中にあった手すり、誰が使うんだというような人のいない駅に設置されたエレベーター、トイレの金属の補助具、スロープ。
バリアフリーと呼ばれていたもの。
それらは全て何一つ装飾性などではなく、煮えたぎるような『必要』に応えて作り上げられた叡智だった。
誰もが、頭では理解している。でも実感を伴ってそれを理解する機会は、当事者になるか、ケアする側に回るまで、ほとんど訪れない。
誰もが(生きれば)必ず訪れる不自由についての想像力を育む機会を与えられず、健常を謳歌している。
それが今の社会だと思う。
そしてリハビリをはじめて何より思ったのは、
平面を移動するのと、段差を登るのとでは、天と地ほどのハードルの差があるってことだ。
たった20センチ。体を持ち上げるために、どれだけの冷や汗を流したことか。どれだけ心臓を打ち鳴らしたことか。
この筋肉の問題、特に両足の筋力の問題は、以後相当長い間尾を引くことになる。
また別の場所でも詳しく書きたいと思う。
この時は、歩くということが、登るということが、心底恐ろしいと思っていた。
僕は滑稽なほど何もできなかった。
高校の後輩が書いてくれたもの。おわかりいただけただろうか。そう、当時の僕はこんなふうには立てません。