*母の記録*

 

2015年9月27日

<day+473>

退院後の在宅医療の医師や看護ステーションが手配できたと、ケースワーカーから連絡がありました。

モルヒネやステロイドを点滴から内服に変えたりと退院への準備が進んでいきます。

自宅での輸液の管理など私が覚えることもたくさんあり、バタバタとしていました。

息子は絶望の中でとにかく手術できる先生を海外でもどこでも見つけてほしいと、泣いて訴えます。

退院前にもう一度主治医に手術の展望を聞きに行くと、消化器の先生の意見として小腸(回腸)にも狭窄があるので、やはり手術は無理だろうとの見解。

わかっていたことですがやはりショックでした。

 

自分たちで手術をしてくれる外科の先生をどうやって見つけるのか? 

少し前から潰瘍性大腸炎やクローン病の手術を行っている全国の病院を調べていました。

『専門医インタビュー』というネット記事に東北大学病院の消化器外科の医師の記事を見つけました。

『狭窄があると何故いけないのか? ――狭窄のある部位に腸内容物が停滞し、腸内細菌が増加、腸管が拡張して腸管壁の血流を低下させるなどして病変をさらに悪化させる。ひどい場合は腸管に穴が開いて瘻孔や穿孔を引きこす。狭窄に対しての手術のメリットは、こういった悪循環を断つことにある』という内容でした。

とにかくこの長い狭窄を切除してくれる病院を1つ1つあたるしかないと改めて思いました。

 

ネットで調べた全国6か所

東北大学病院、横浜市立市民病院、横浜市立大学付属病院

広島大学病院、兵庫医科大学病院、三重大学医学部付属病院

の中から三重大と兵庫医科大の2つに絞り込み、主治医に紹介状を依頼しました。

三重大には近さが魅力があり、兵庫医科大には別の理由がありました。*この兵庫医科大については後述します。*

翌日、この2つの病院へ予約の電話を入れました。

 

 

*僕の記憶*

 

 

これまで何度も書いている通り、

僕は目の前にある痛みや自分の体に手いっぱいで、

未来を見ている余裕なんてなかった。

いや、余裕がなかったと言うのはちょっと甘い書き方かもしれない。本当は怖かったのだ。未来を眺めるためには、希望を持たなきゃいけないから。それはあまりに辛いことだった。

でも母は未来を見ていた。でもそれは希望を抱いていたのとも、違うと思う。母はただ未来を見る以外の選択肢を持っていなかっただけだと思う。母は僕が死ぬまで、僕が生きることを考え続けるような人間だと思う。諦めるという選択肢はなかったのだと思う。

 

だから、とにかく、僕と母が見ている景色は別のものだった。

今回の記事も、記録の部分はかなり厚い。でも僕は、そう言ったことが水面下で起こっていることを、全然知らなかった。知ろうともしなかった。

もうこれ以上、無駄な希望を背負わされることが、どうしても嫌だったから。

それでも体は死ぬまで生き続ける。

生きていれば寂しさが湧いてくる。

 

母がいる時間は苦痛だったけど、母がいない時間はそれを超える遥かな苦痛になった。誰もいない部屋に取り残されるのが怖くてたまらなかったので、母がどこか他の病院に行くと言う日は、伯母にいてもらっていた。

 

この頃僕は何をしていたかというと、

写真が残ってた。

 

ピロピロである。

そう、あのピロピロだ。誰もが子供の頃に一度はやったことのある、子供連れがよくくる焼肉屋とかのおまけとして置いてあるやつ。

ピロピロ。

これ何かというと、複式呼吸の練習のための渡されたものだった。

だいぶ呼吸が弱っているからということだった。

ピロピロが、決して馬鹿馬鹿しいと思ったことはない。これは画期的なおもちゃだ。マジでそう思う。ただ正直、こんなことをしたって僕には意味がないと思っていた。

それでも一応こうして咥えた写真が残っているのは、

あんまりつれない態度を取ると母や伯母を悲しませると思ったからだ。

二人の時間を奪っていることへのせめてもの償みたいなもんだと思っていた。