*母の記録*

 

2015年6月13日

<day+367>

新聞で文芸社の出版相談会が名古屋のホテルであるという記事を見つけた主人が、行ってみようと言いだしました。

息子の書いた小説を出版するためです。

営業担当の方に息子の書いた原稿を渡すと、とにかく持ち帰って読んで

感想を伝えるという事でした。

病室に行き息子に報告。原稿を受け取ってくれたことを喜び元気になり、

面会時間ぎりぎりまで家族3人で七並べをして過ごしました。

夜、主人が珍しく泣きました。

トランプの途中で息子が、こんないい父親はいないと言ったからです。

 

 

 

2015年6月16日

<day+370>

なんとか個室をお願いしていましたが、この階ではどうしても空きは出ず,

7階なら用意できると言われましたが、看護師が変わるため息子は悩んでいました。

自分の担当看護師とも相談しやはり担当が変わってしまうのはさみしいということで移動はあきらめました。

吐き気が止まらず薬も吐いてしまうので胃カメラを行うと、食道もきれい、胃は多少荒れているもののひどい嘔吐の原因になるほどのこともないようで、とりあえずつまんでとった箇所の生検まち。

夕方はDTMのレッスンで楽しそう。レッスンの後はいつものトランプタイム、今日は大富豪。

 

 

*僕の記憶*

 

 

長期の入院で何が一番すり減るかっていうと、

それは人間関係だ。

それこそ、この頃の僕はTwitterやTikTokといったメディアに自分を晒すことを、

今ほど楽観的には考えていなかった。

それはリターンよりリスクの方が大きいと思っていたし、

何よりそれを始めようと思う体力がなかった。

もし、

この頃からSNSを活用できていたら、と

今でもよく考える。

もっと多くの自分と同じ病気の人と繋がれていたなら

あるいは当時のリアルタイムの感情を社会に向けて発信できていたら。

そう考えるけれど、それがいかに意味がないことかを僕はすぐに思い出す。

 

この時、家族という社会の最小単位に閉じこもり、

幸せそうに見える健常者の社会と自分とを切り離していたということは、

僕にとって、多分、すごく大事なことだった。

きっと、社会とのつながりを持ってしまったら、

僕は世界を呪っただろうから。

病院の外の世界なんて、

見えない方がマシだった。

 

 

でも、その日。

両親の口から文芸社、出版社という言葉がでて、

僕の心に微かな希望が灯ったということを、

今でも覚えている。

社会が、今再び僕の前に彩を持って現れたという実感を

僕は鮮明に覚えている。