紅玉いづき「15秒のターン」の表題作のネタバレを含みまぁす★

 

 

 

昔、大学受験をしていたときに、名古屋の千種というところにある個人塾に通っていたことがある。かなり独特な先生で、一日13時間勉強するのは当然のことだみたいな感じのところだった。

その先生が特に力を入れていた科目は英語で、

英語読解をモデル化するということを授業でやっていた。(他の先生も同じことを言ってるんだろうけど、他の先生の授業は記憶に残ってない)

英文法のモデル化の一番普遍的な部分は、センテンスを「譲歩と要旨」を区切ることで、その境目としてbutやhoweverがある、という説明だった。

つまり筆者の言いたいことは基本的には後に来るが、その前座として論を補強するための「譲歩」の部分があって、譲歩から論旨に切り替わる瞬間が、あたかも水と油の境のように接続詞によって示されている、という話だ。

僕は、はなから一日13時間の勉強なんて無理だと思っていたし実際に無理だったけど、そのモデル化の話はすごく面白いと思った。だってこの論理展開のモデルは、何も英文法の学習に限った話じゃないからだ。

 

 

小説に限らず、エンタメ作品を作る時、「反撃の瞬間」がとても大事なのかな、と僕は思っている。

元来エンタメとは主人公に課題を与え、主人公にそれを乗り越えさせるという形をとる場合が多い。友情努力勝利じゃないけど、勝利の前には敗北があるべきで、ピンチがあるべきで、そしてピンチは乗り越えられるべきだ。

そして小説というメディアのシーンが文字で描かれる以上、エンタメ小説にはどこかに明確に風向きが変わる瞬間の一文が、英文法で言ったらhoweverに当たる部分が、あるはずなのだ。

 

「俺たちは今まで確かにクソみたいな人生を歩んできた……

 だけど!

 大切な仲間を守るためにこんなところで負けるわけにはいかね!!!」

 

この、だけど、の部分みたいに。

 

 

そこで今回紹介する紅玉いづきさんの短編集「15秒のターン」

ミミズクのシリーズを読んで好きになった作家さんであり、mw文庫の先輩でもある。

当然面白いんだけど今回はこの短編集を題材にして「風向きがわかる瞬間」を読み解いていきたいと思う。

 

 

今回スポットを当てる表題作「15秒のターン」は、高校の文化祭を舞台に、あるカップルが二人の視点から、相手に対する15秒間(正確には15秒×2)の思いの変化リアルタイムで描写していくという方式を取る。15秒という縛りがまず目を引くけれど、今回はそれは傍におきたい。

「15秒のターン」は短編とだけあって登場人物は極めてシンプル。

小柄な少女ほたると、責任感の強い梶くん。

ほたるが告白して付き合い始めた二人は、恋人らしいことをあまりせずに破局の瞬間を迎えようとしていた。その原因となったのは、文化祭の日に時間が欲しいと告げたほたるに対して、梶くんが「難しいよ」と言ったこと。まず、若い恋人は些細なことで別れ得るという切ない事実を踏まえている。

二人が抱えている問題はどちらも恋愛に対する「誤解」なわけだが、冒頭ですでに「別れようと思っている」という状況から始まる。

 

 

 

短編というのは無駄なものをできるだけ削ぎ落とした方が価値が上がるものだ。だから「別れようと思っている」という「問題」を冒頭で提示することで、一瞬にして読者に問題を理解させた上、インパクトも与えている。

またシーン冒頭に書かれた15〜11秒等の表記が、刻々とすぎていく時間を表していて、緊張感を与えている。

男女のすれ違いの話は、すれ違ってるパートと、対決するパートに分かれると思う。そして15から減少する秒数は、そのまますれ違ってるパートの進行を意味している。このネガティブに落ちていく15秒の間に二人は、付き合い始め、すれ違いを抱え、その軋轢が最大に達するまでの過去を回想し、いよいよ互いに、別れを告げようというところに至る。

この、互いに、別れを告げようとするという部分が、作劇的な「ピンチ」であることは自明だ。恋愛における「ピンチ」は大抵破局なので、ここまではある意味で予定調和。

ここまでで文庫本の9ページ。

そしてカウントが0になった時、いよいよ対決のパートが始まる。

 

 

対決というのは相手と向きあうというだけでなく、自分自身の心とも向き合うということを意味する。(必ずしもそうじゃないけど、どんな作劇でも少なくとも自分の心に向き合う必要あはる)そして物事に向き合うためには、何か印象的な「きっかけ」が必要だ。

「15秒のターン」の場合、「手が触れ合うこと」がトリガーになっている。

カウントが0になって以降、数字が今度は増大を始める。0〜5秒。この5秒の間に、二人は手を触れ合わせる。手が触れ合うというのはありふれたことだ。でもこの作品の面白いところは、そのありふれた挙動を、二人に恋愛に対する「誤解」を解かせるための「最終兵器」に仕立てているところだ。手が触れるだけ? と思うかもしれないけど、手の骨格は男と女では別の別の生物のように違う。いや実際はそんなことはないかもしれないが、この短編に登場する二人にとっては、それは大きな衝撃だった。

ほたるは梶くんの手に男性的な逞しさと強さを感じ、梶くんはほたるの指先に繊細さと儚い弱さを感じた。それは言葉の上で恋愛を解釈していたにすぎない二人の誤解を破壊する、強烈で目を背けがたい「事実」だった。

この手を触れるという行為は、「反撃」の予兆だ。けれどまだ、風向きは変わっていない。何かが起こるであろう予兆だけを読者に感じさせたまま、キャラクターの内部に熱量が格納されている状態。

その熱量が爆発するのが次の10秒間。

ほたるは、相手が自分を「殺す気だ」と感じる。それはもちろんメタファーなのだけど、それくらい熱量が指先を交わして交換されたということだ。そして風向きが変わる瞬間=「反撃の瞬間」が訪れる。この部分だ。

 

 握力が二十しかない私の右手。私の力。けれど返さねばならないと、思った。伝えねばならないと思った。

 私にも殺意があるということ。

 あなたを殺す覚悟があるということ。

 

四行用いているが、前部分は「だけど」が入っているので譲歩を汲んでの表現であり、いわば覚悟への導線と言える。より細かく見ると、境界線は「私にも殺意があるということ」この一文によって引かれている。

このほたるパートが終わったのち、梶くんのパートが入るが、それ以降で描かれていることは、お互いの熱量のすり合わせに過ぎない。結論は上の「私にも殺意があるということ」ででている。恋というものをただの憧れとして捉えていた少女が、ついに恋の当事者になった瞬間。虚飾の思いを脱ぎ捨て、自分が真に求めるものと向き合った瞬間だ。

最後まで読むと、タイトルの「ターン」が、ターン制のターンではなく、「踵を返す」意味としてのターンであることがわかる。文化祭のワンシーンのたった15秒(30秒)で、恋に対する考え方をまるっきり変え、ターンを決めた男女の話。読者はコンパクトにまとまった熱量に打ちのめされる。

 

 

ここで見て欲しいのがページ数だ。英文法的に言えば譲歩の部分だった「すれ違ってるパート」は9ページ。それに対して、二人が「対決するパート」に割かれているのは、16ページ。これはもちろん紅玉さんの作家性もあると思うが、短編というのは展開以上に、情緒の深掘りがめちゃめちゃ大事だということだ。

 

 

ピンチを設定すれば、それを乗り越えさせる一文というのは必ず考えなくてはいけない。その一文は願わくば、作中で最もかっこいい一文であってほしい。そして大事なのが、風向きが変わった後の二人の、心が通じ合っているシーンに、何より筆力を込めて欲しいということだ。心が通じ合うことを描くためには、心が通じ合って終わりでいいはずがないのだ。心が通じ合ったということを読者が納得するには、それまでのすれ違いを完全に打破するほどの、眩いばかりの「合意」や「覚悟」が提示されなくてはならない。

 

 

「15秒のターン」は美しいロマンスであり、そして同時に、ロマンスとは常に自意識に戦いを挑む話であるということを思い出させてくれる傑作だと思う。

ので、短編が書けなくて辛いという人は、一読してみてほしい。

キャラに対して吹いている風向きを掌握することは、短編を掌握することと同じであると僕は思う。

 

 

 

えっ、

しかも表紙ろるあさんじゃん……(今気づいた。マジですみません)

やっば!

最強かよ!!!