*母の記録*

 

2015年1月22日

<day+225>

面談室での話を受けて不安が現実味を増し私は自宅へ戻り、まずかかりつけ医に電話をしました。

もうできる治療はないと言われこの先どうしたらよいか助言をもらうためです。

またネットで調べた白血病ダイヤルの消化器の医師の電話相談や、日本一臍帯血移植の多い東京の虎の門病院へもセカンドオピニオンの予約のため電話をしました。

白血病ダイヤルの医師はとにかく本人の状態が一番の目安。炎症が治まらないと手術はできないので、2,3か月毎に内視鏡検査で確認していくしかないだろう。

また主治医にセカンドオピニオンを受けたいと伝えると紹介状はすぐに用意すると言ってくれました。

 

夕方かかりつけ医が主治医に会いにきてくれました。

私も面談室で同席、かかりつけ医からでた『難治性の症例』という言葉に息子の病が難治性のものであるということを改めて知り愕然としてしまいました。

この後かかりつけ医は息子を見舞ってくれました。

息子には話していなかったので、私は一緒に病室へは行きませんでした。

幼稚園のころから診ていただいてる先生が突然お見舞いに来てくれて息子はびっくりしたと思いますが、そんな話も全くしませんでした。

夜、カルテを見た部長がびっくりしたと言って病室に来てくれて面談室で2人で話をしました。

主治医からの厳しい話を伝えると、なぜ今熱もなく腹膜炎が起こったのか? 今回こういうことが起こったので主治医も厳しい話をしたのではないか。

この夜私は息子の親友のお母さまへ会いに来てほしいと電話をしました。

このまま母親とだけ一緒にいる入院生活の中で、もしも何か起こったら息子があまりに不憫でなりません。

 

2015年1月26日

<day+229>

水分なしで過ごす6日目。

主治医に喉が渇いたというと炎症値も下がってきているので水分だけは良いことにしよう。

ただお腹が痛くなったらすぐに止めてねと。

 

このころ美味しいと言って飲んでいたお茶

 

夕方親友の佐藤君がお母さまと一緒に面会に来てくれました。

私が電話したことは話していないので、なんで?と少し驚いていました。

今は吐き気も腹痛もなく本人も元気にみえます。

炎症、狭窄ということがなんだか信じられませんでした。

 

 

*僕の記憶*

 

 

この頃、僕と母の見ている世界は全然違うものだったと思う。

母は上の記録にもあるように、僕の病状をなんとか良くしようと、水面下で駆けずり回っていた。

だけど僕に見えている母は、

特に一緒に何をするでもないのに文句も言わず病室に一緒にいてくれる唯一の他者であり、そして夜になると帰ってしまう存在だった。

 

 

僕は母が来るのを待ち望んでなんていなかったけど、来ない日の苦痛は増していたからただただ必要なものだったという感じ。

抗がん剤治療中に運んでもらってきていた朝と夜の食事も、今は食べられなくなってしまった。とりとめのない会話以外で母と話すことなんてほとんどないのに、僕にはどうしようもなく母以外にいなかった。

 

 

誰が面会にきたとしても、僕に感動はなかった。

感動するという機能が失われてしまったみたいだった。

子供の頃インフルエンザとか喘息でよくかかっていたかかりつけ医の女性が来てくれても、もちろん感動なんてなかったのだけど、

この人は本当に老けないぁと、そんなことを思った記憶がある。

彼女にインフルエンザワクチンを打ってもらっていた頃の僕は、果たして、一度だって考えたことがあったろうか。自分がこんな有様になると。

 

 

それと、友達が母を連れてやってきたこともあった。

どういう風の吹き回しなのかと思ったけれど、当時はすぐに忘れてしまった。

僕が死にそうだったので母が後ろで糸を引いていたのだと知ったのは、今まさにこれを執筆している現在のことだ。

この記事を書くことでやっと、

僕は母の見ていた景色が少しだけ見られた気がする。