*大滝びんた氏の『細かすぎて伝わらない小説の話』 に対するアンサー*

 

 

前に訊かれて答えられなかったことをまとめました。
「読まずに書きまくったことのよさは何」という問いです。
長くなりますすみません。

まず僕はあまり自分が「書けている」とは思いません。
未熟すぎて本当にキツイのですが、すでに買っていただいた方(僕に興味を割いてくださった方)と僕を嫌わないでいてくれる編集者への責任と感謝から素人とは言えないな、という意識です。
また読まずに書きまくったことで書けるようになったというのは、かなりの無駄を含んでいます。歪んだ成長の仕方で、今でもその枷に苦しんでいますが、自分はそうするしかなかったなとも思っていて、僕と同じタイプっぽい人には同じ方法を薦めると思います。

そもそもですが、
今自分が書けるようになっているか否かということ自体が、恣意的な判断です。
このふんわりした概念を言い換えると、
「自分の面白いと思えるものに自分の作品が達しているという自覚がある」
ということだと思います。
上の状態は二つの変数を含んでいます。
A=自分の面白いと思えるもの
B=自分の作品
これがA≦Bになった時に初めて「自分の面白いと思えるものに自分の作品が達しているという自覚」が持てるのかなと思います。(マジで文字通りなんですが)

なのでAの数値が低ければ、Bが低くても、書けている自負が発生するということになります。ダニングクルーガー効果とか言われますね。
でも真摯に書いていれば、BはAより遥か遠くにあると知ります。だからこれを知ることができる程度には本を読んでいた、ということになります。実際に僕が高校時代とかに読んだ本は「とある魔術のインデックス」の1巻〜15巻と、
トラどらの10巻と外伝、そしてカズオイシグロのわたしを離さないで、だけだったと思います。西尾維新は化物語を部分的に読み、その面白さから逃げました。この世にこんな面白いものがあってたまるかと怖かったです。以来西尾維新には触れてません。

高校時代の僕は全然公募に出してませんでしたし、かといってネットにも上げていませんでした。当時はケータイ小説が下火になり始めていて、小説家になろうのサイトが有名になり始めていました。
僕は純粋に否定されるのが怖かったので、公募していませんでした。成功体験もありませんでしたが挫折もなく、それゆえAとBの両方が今よりずっと低かったです。ただ自分のアイデアは素晴らしいと思っていたので、これを言葉にしさえすればなんとかなるだろう、と漠然と考えていました。
この頃書いていたのは「借り物のSF」や「無駄にスピンオフばかりができるバトル長編」で、オリジナリティは全然なかったのですが、何かでかいことだけはやりたいという思いがありました。
もちろんそんな甘い考えは砕かれますが、砕かれるためには長い時間を要しました。

高校を卒業して闘病期間に入り、そこでようやくある大事な、すごく初歩的なことに気づきました。「アイデアは人に伝わらないと意味がない」ということです。それで初めて、自分の信じる面白さより他人への伝わりやすさを優先した作品を書こうと思い、BAMBOO GIRLを書きました。20歳で、この時点で小説を書き始めて6年が経っています。
BAMBOO GIRLは、もちろん今見返せば全然ダメなところはいっぱいあるんですが、初めて人に少しだけ伝わったな、という体験につながりました。
この作品を文芸社から自費出版しましたが、当然そんなに売れず(しかしこれが重版はしたらしくそこで自分は大丈夫だと思ってしまった)大学に入って商業化されたことでその虚構の余裕が延長され、真に自分の無価値さに気づいたのは大学二年=24歳の終わりです。

それまでは本当に、小さな賞=「母数の少ない獲れそうな」賞にしか応募していなかったのですが、
自分に時間がないとわかってからは切り変えて、大御所を狙い出しました。

この頃、僕は何が面白いのかというのはわかっていませんでしたが、何が面白くないかとうことはわかり始めていました。それに気づかせてくれたのは自分より文章がずっと上手いと思う人たちからの意見であり、すなわち大学のサークルの合評でした。僕の大学の友人の大部分はその頃純文学を志していて、僕の持つSF・ラノベ的価値観とは全く異なる評価軸を持っていました。少なくとも社会はそのサークルより厳しい存在なはずなので、そのサークル内で悪いと言われたものは悪いのだと受け止めるほかありませんでした。
こう書くとメンタルが強い人みたいですが、もっと詳しく書くとそうでもないです。正確にはそのサークルは僕が作ったもので、明確に自分自身を強化するという意図がありました。大学の仕組み、そして他者の意見を利用するという支配感で、自尊心の低下をカバーしていたんですね。策士。
そこで僕は自戒を得ました。「アイデアを信じすぎると失敗する」というものです。自分が本当に書きたいことを書こうとすると書けないので、一旦枠組みからアプローチする。枠組みにライト文芸を選んだのは、それが自分を客観視させてくれるものだったからです。

同時に、自分には他人とは違う強みがあることを気づかせてくれた出来事がありました。それは大学二年終わり、文芸思潮のエッセイ賞への応募と、優秀賞の受賞です。この時僕は今までやってこなかったこととして、自分の過去をエッセイにして綴るということを初めてやり、初めて賞というものをもらいました。ここで応募した作品も実は、上記のサークルでみっちり合評してもらったもので、見違えるほど良くなったものを提出しています。
闘病は自分のルーツになり得ると思い、少しだけ自信になりました。それで書いたのが老化に関するSF長編と「きみ雪」でした。

ここで最初の話に戻ると、「面白いものを書けている自負」を形作る二つの変数は、言い換えると

Aが盾で
Bが武器
なのかな感じます。
Bは自信を作り、Aはそれを圧迫してくるものです。ただAは自分の中に存在する社会のことなので、Aの数値が低いままだと客観的評価につながらないのかな、と思います。
ただBの高まりがなければ、そもそも書く気すら起きません。
そしてAは大人になれば誰もが身につけるものですが、Bは育てなければ減っていくか見失いものなのかな、と思います。

自分の人生を振り返ると、
僕は大学に入るまでひたすらBを信じ続け、守り続けてきました。心の中に暗く燃えるプライドの火があり、それによって書かせられ続けてきたみたいな感じです。でもそれは、クソ雑魚メンタルな僕のことですから、高校時代とかに容易に吹き消されかねなかったものだと思います。
もう引き返すことができないくらいまでBが燃え広がった状態でAを浴びたので、体内の温度がいい感じになって、ぎりぎり商業ラインに届いたのかな、と思っています。

長くなりましたが「読まずに書きまくったことのよさ」はメンタルが弱い人でも継続的に書かざるを得ない状態に自分を置くことができ、その分向上する確率が上がるということです。Bが向上するかしないかは、ガチャだと思います。でもガチャって回した数だけ抽選が行われるものなので。そして作家デビューできたのも運でしかないので、やっぱり試行回数だけが確かなものなのかな、と。


今回新たに「風」という言葉が出たのでそれに当てはめると

A≦B(A>商業ライン)が風です。

 

 

*なんか論点がおかしかったら申し訳ありません!*


ただの変数として表記しているAとBが、実はA=X、B=Yの関数かもしれないんですよね。つまりX^2=Yみたいに、Xを鍛えていけばゆっくりとYも向上する、みたいな。
そういう関数の領域にいる人は、インプットを増やせばいいんじゃないですかね。

僕のXとYは全然別のディメンションにあり、本を読むことが全く自信に繋がらないので、どうしようもないです。