こんな質問をいただきました。
まずはありがとうございます。(以下いつもの文体)
なんでこの質問をわざわざ記事にしたかと言うと、
個人的に「感想文」って僕の中では一つの象徴なので、
今回はそのことに触れようと思って。
何の象徴か?
「自分が読書が嫌いなこと」の象徴。
小学校の時、確かに僕も読書感想文を書かされた。いや書かされかけたというのが正しいかもしれない。
結論から言うと書かなかった。
そもそも僕は文字を読むことが好きではなかった。
おいおい自国の識字率の高さにあぐらを書いてるな〜〜〜? と思われるかもしれない。でも能力を持っていても使わない権利もある。
とにかく僕は小説、絵本、メディアに関わらず、文章を読むことが嫌いだった。
もっと言うと、
読まされることがこの上なく嫌いだった。
親というのは、本を読ませてくる生き物だと思っている。
子供に本を読ませないと死ぬ呪いにでもかかっているのだろうか。
あるいは子供ができるとオトナトランス酵素とかが働いて遺伝的に変化を遂げてしまうのかも。
そもそもこの国にはなぜか、本を読むと賢くなるみたいな言説が根強い。
そしてその対比として「悪の娯楽」に挙げられるのがゲームだ。
僕の両親もまあまあそれを信じていた。
本を読むか、体を動かすことが正しく、ゲームやネットをすることは悪。
実に狂信じみている。
子供にとって強制されることほど苦痛なことはない。と僕は思う。
子供によって閾値があると思うし、一般化するのは良くないので、言い換えると、少なくとも僕はそうだった。
ある日、小学校から課題図書なるものが回ってきた。
3冊ぐらいあって、それらは課題図書は共用だった。
なんだったか覚えていないが、少なくともラノベや漫画ではなかった。
『正当』なる図書。図書のピュア・ブラッド。そういうやつだ。
名簿みたいなものも同封されていて、貸し出しの日にちが決められているようだった。
時間制限付きだったのだ。
覚えている。クソみたいな夏の日だった。ということはつまり、それが夏休みの課題だったのだろう。僕は当時父親が事務所にしていたマンションの一室で本を見つめ、そして、その存在を呪った。
読みたくなかった。
読みたくなさすぎて本当につらかった。
ひどく喉が渇いていた。時間の進み方がゆっくりに感じた。僕とその本だけが宇宙から切り離されて、たった二人で孤独に睨み合っていた。それは戦争だった。
そして僕は、本にバツをつけた。
太字の油性マーカーで。
そんなことをすべきじゃないと頭でわかっていたが、どうしようもなかった。
その瞬間が、僕の、自我の発露だったのかもしれない。
尊い拒絶であった……!
…………。
……。
…。
フツーにめちゃめちゃ怒られたよね。
親に。特に本をよく読む父親に。
だから書いた記憶がない。僕が本を読むのが苦手と言うときに真っ先に浮かぶ、名詞みたいなエピソード。
「そもそもなんで人の書いた話に感想なんて書かなきゃいけないんだ?」というのが昔の僕の思ったことだった。何も浮かびはしない。面白いと思えないのだから。書くべきことは一つ、苦痛、のみ。
苦痛、と書けばよかったのか。
400字の紙いっぱいに痛みを吐き出せばよかったのか。
当時の僕に、読書をメタ化する知恵があれば……。
そんな小学生だった。
どう考えても作家になる星に生まれてないように見える。
僕は現在、村田沙耶香やカズオイシグロが好きだ。リューツーシンも好きだし、オキシタケヒコもマジで好きだし、そんなものは上げ出したらキリがないが、でもそれは自分で見つけてきたもので、自分で見つけたということが自分の好きを補強しているように思う。
何度も言うけど僕は義務化されたことが本当に嫌いだったので、
『読書』が『押し付けられたもの』と認識されていた高校時代までは本当に読むことが苦痛だったし、楽しさもわかろうとしなかった。
でも、文章を書くことは割と昔から好きだったと思う。
小学校6年生の頃には自由帳に小説っぽいものを書た記憶もあるし。
文章を書くことは誰からも押し付けられていないから。
まあ、この世には、自分で掴み取ったものしか残らない『ザ・愚者』みたいな人もい流ってことを知っていただければね……。
これ幸いですわ……。