僕、ポケモンというゲームが、苦手なんだ。
そもそもアクションが好きだからモンハンとかに流れてるというのもあるし、次々と新作が発売されている中でもうシステムに追いつける気がしないというのもあるんだけど、
それ以外にもっと根本的な何か、
肩身の狭さ
みたいなものを感じているのかもしれない
とふと思った。
それで、両親らと長野に旅行に行っている時に考えたのだ。特に温泉に入っている時に考えたのだ。それがどういう肩身の狭さなのか。
それぞれのポケモンには、種族値という数値が設定されていて、これはアプリオリ的に与えられた条件なんだよな。
それとは別に、どういう敵を倒したか、で得られるものが変わる努力値という、アポステリオリ的なパラメータがあって、
対戦するときには、それらのステータスをすごくしっかりしたものにしておかなくてはならない(らしい)んだよな。
で、これは僕の悪いところかもしれないんだが、
やっぱり人と戦うんだったらちゃんとステータスを揃えたいという気持ちになる。
モンハンでも、僕は戦うことと同じくらい装備を考えることが好きで、
準備時間にこそ幸福を感じる人間なんだが、
そのステータス整備のために必要な労力がポケモンは馬鹿でかいよな、と。
だから苦手なんだろと言われたら、マジでそうでしかないんだけど、
でもその苦手の奥には、次のような考えがあると気づいた。
まず、ポケモンは生き物だ。
そして新作が発表されるごとに、新ポケモンが追加されていく。今や膨大な数の『種族』がいる。回を追うごとにバリエーションの増していく、まるで生物多様性を象徴するようなゲームデザインには美しさがある。
でも、そのポケモンを使って人類が何をしているかというと、
バトルをしてるんだよ。
死に・殺しこそしないものの、使役された相手のペットを傷つけ、傷つけられ、ボロボロになってもなんとかセンターで回復させられる。
この時点で既に十分All You Need Is Killなんだけど、
それ自体は別に良くて、
実際に技とステータスによる構成の読み合いって、ものすごくゲームとして質がいいと思うんだ。
だけど、
さっきも言ったように、ポケモンがたくさんいるというのは、生物多様性の構図だ。バリエーション豊かな生き物=自然信仰の文脈。人類が環境保護をするのは生物多様性を守るためであって、ポケモンの世界観の美しさは、多様性にこそあると、僕は思ってる。
そして多様性とは、『強さ』という一軸に還元され得ないんじゃないか。
生物多様性が生まれている理由はなんだ?
世界が美しくあろうとしたからか? 人間に色とりどりの花を見せようとしたからか?
そんなわけなくて、
生物多様性があるのは、ひとえに環境変化に抗うためだ。
そういう、遺伝生物全体の戦略だ。
人間が自然を守ろうとするのも、生物多様性を愛しいと思うのも、それは美しいものを守ろうとかいうフワッとした気持ちじゃなくて、自分達の豊かな暮らしが生物多様性という現状で人間が作り出すことのできない天然資源によって成り立っていることを知っているからだ。
そして生物多様性の生存ゲームにおいて、言い換えるなら自然選択のルールにおいて、勝者とは何か?
『強さ』、と答えていいと思う。
だけどそれは答えの一つでしかない。
ここでいう『強さ』は、『敵を倒す力』と仮定する。ポケモンの勝利の基準は、相手の保有するポケモンを全滅させることだから、やっぱり競っているのは『強さ』という一基軸。
しかし自然選択のルールにおいては、『強さ』がなくとも『狡猾さ』がある人類がとりあえず繁栄している。だがこの『狡猾さ』もゴキブリの『高い生殖能力』には劣るかもしれない。わからない。どうなるかは、現状で予測する術がない。
だからこそ自然選択のゲームは面白いし、美しいし、めちゃめちゃフェアなゲームだと僕は思う。
もっと明確に言うと、
自然選択ゲームで勝利する方法はただ一つ。
『より長く種として生き延びること』。
それは究極の異種格闘技であって、存続することこそがゴールだ。
『目の前の敵を倒す』なんてことは、存続の部分の部分の部分の部分の部分の部分の部分の、部分でしかない。
すげー狭いんだよ。
もしポケモンの試合が二百年単位とかで行われていて、その二百年を種として生き延びたチームが勝ち、みたいなルールだったら実に美しく教育的なゲームだと思う。でも、ゲームとしてわかりやすく面白くするために、それらの醍醐味を捨象してしまった。
ポケモンバトルは、存続の部分の部分の部分の部分の部分の部分の部分の、部分で行われている小競り合いにすぎない。
きっと僕は、そういうところに狭さを感じたんだろうな。
やっとタイトルに戻るけど、
ポケモンバトルというのはポケモン世界にある多様性を、バトルという『強さ』の尺度に落とし込むシステムだ。そしてその過程で、種族値の関係から、ポケモンにはどうしても優劣がついてしまう。
そして種族を人間の価値観で優劣の篩にかける考えのことを、優生思想と呼ぶんじゃなかったっけ?