夢を見てた。
起きた瞬間思い出せるのはぼんやりとしたイメージだけだけど、たぶん子どもの時の俺。
俺は必死に両手を伸ばしてる。
あれもこれもって、手当たり次第に欲しがって。
何も持たない自分の両手を、何かでいっぱいにしたくて。
もっと、もっと。
まどろみから俺を現実に引き戻したのは、一本の電話だった。
――ごめん、行かねえと。
電話を切ろうともしないまま振り返った俺にニノは、はいはい、なんて言っておとなしくベッドから起き上がった。
昨夜の気怠さが残るその肌は、まだしっとりと水気を含んでいるように滑らかで。
この後に飛び込んだスケジュールをマネージャーと確認してる俺には、まったくもって目に毒だ。
電話を切る。
「俺は出るけど。まだ寝てて」
昨晩遅くに俺の部屋で合流してから、今日は二人とも久しぶりのオフの予定だった。
なもんだから、昨夜の俺はだいぶはしゃいじゃって?
その結果、ニノもすぐに起きられるほど回復してないだろうし、まだまだベッドから出してやるつもりもなかったのに。
「んー…俺も出る」
とニノはまだ少し緩慢な動きでベッドサイドにある自分のスマホを手に取ったが、それでも素早く通知画面をチェックする。
「聞き分けいいのな」
「ふふ、仕事でしょ」
ニノはまるでしなやかな猫のように音をたてずにベッドを降りると、んん、と気怠げにひとつ伸びをして身支度を整えた。
それからしばらくして。
送迎車の到着の知らせを受け、ロックした部屋を後に二人、人けのない上階のエレベーターホールに立っている。
「ふあ、ねむ」
「ふふ、空気がまだ明け方なのよ」
乗り込んだ小さな箱は、ゴウンと明け方のそれを震わせながら下降を始めた。
無機質なその機械音に、ぐるる…と俺の腹のなる何ともあたたかみのある音が混じる。
「ちくしょー、腹減った」
「コンビニでも寄ってもらいなよ」
ニノは細い顎をそらしてクスクスと笑った。
革靴とサンダルのつま先を並べて、視線をあげる。
エレベーターの階数表示が、二人の時間をカウントダウンするようにするすると減ってゆく。
「ウーバーでも頼んで今日は1日ベッドから出ない日にするはずだったのに。なあ?」
「みんなそんな不健康な櫻井翔なんて見たことないよね」
「…ニノ。ゆっくりできなくてごめんな」
「全然。お互い様じゃん、こればっかりは」
「毎度聞き分けもよくなるよな、俺ら」
「ふふ。行かないでとか言えば良かった?」
小首をかしげるそのヘーゼルの瞳は、全てを見透かしてるように大人びてる。
ああ、大人だっけ。俺たちもうとっくに。
俺も今そんな目をしてんのか。
もう子どもじゃない、全て分かってて何も言わない目。
「…言ってみて?」
じっと見据えると、ニノは初めて戸惑ったように俺を見返した。
一瞬の沈黙と同時に、ポーンと上品な音をたててエレベーターが地階への扉を開いた。
早朝のエントランスホールはガランとして俺たちを待ち構えている。
「翔ちゃん、早く行かないと」
「行かないで、じゃないんだ?」
「……」
黙って手首を引き寄せると、その聞き分けのいい唇を塞いだ。
「っしょ…、ん」
俺たちはもうとっくに大人だから、ニノは子どもじみたことを言わない。
そんなの、全力で言わせたくなるだろ。
「行かないで、は?」
「ん、い、……ってきな、よ」
蕩けるようなこの唇のやわらかさとは程遠い強固さに笑ってしまう。
だけど、そう簡単には引き出せないからニノなんであって。
「そりゃ行くけど」
角度を変えて薄い唇を食む隙間に、吐息とともに低音で滑り込ませる。
「この続きは?いつがいい」
エレベーターが、早く降りろというようにまたひとつポーンと声をあげた。
僅かに息を乱したニノが、濡れた唇を尖らせる。
攻略法が間違ってないことは、その真っ赤な耳が証明してくれてるけど。
少しの逡巡の後、ニノが何か言いかけた瞬間、俺の胸のスマホがしびれを切らしブーンと音をたてて震えた。
そうしたらニノは慌てて口をつぐんでしまったから、つくづくマネージャーは有能すぎない方がいい…これはマジで。
今度こそ苦笑をもらして体を離すと、さっき乗り込んできたばかりの階のボタンを押してから俺はひとりでエレベーターを降りた。
「急いで帰ってくるから。待ってて」
有無を言わさずエレベーターの閉ボタンを押す。
「…強制待機でしょこんなの」
まだまだへらない口だったけれど、扉が閉じ終わる寸前に小さく聞こえた。
「早く。待ってる」
チン、とあっけない音を残して閉まったエレベーターの扉をじっと見つめる。
今すぐ追いかけて、抱きしめて、続きがしたい。
さっきの夢って、この暗示じゃね?
この二択は、選べるもんじゃねえし。
つーか逆にニノは待てんの?
胸ポケットの震えを抑えながら、大股でエントランスを横切る。
前々から申し入れていたが交渉が難航していた取材が、急遽時間を作ってもらえることになった。
俄然やる気になってくるから不思議だ。
あれもこれも、全部欲しい。
よっしゃ頑張りますか。
まだまだ子どもみたいに両手伸ばしてくぞ俺は。
緩やかに開いたエントランスドアをくぐって、朝霧を思い切り吸い込んだ。