総意ということばにいろいろな解釈があるのだろうか。
かって、一人でも反対すれば総意ではなくなる、と考えていたことがあった。
総意とはつまるところ多数ということであろう。
国民の政治的代表者は国会議員である。
彼らの多数が総意になるのか。
はなはだ疑問である。
憲法に、ことさら総意とされていることから、
間接の総意という意味ではないだろう。
これは国民投票を意味する。
民主主義の主は国民のことであろうが、
それは守られるべき存在としての主であるのか、
それとも権力を有する者としての主であるのか。
民主主義とならんで自由主義ということばがある。
これは、多数に反対する自由と解することができる。
天安門事件。
戦車の前に立つ一市民。
彼はひき殺されたであろうが、
天安門事件とはどおいうものであったのか。
毛沢東体制からの脱却をめざしたものであった。
鄧小平が指導した。
戦車が動員された。
天安門広場の群衆をけちらした。
毛沢東よ、さようならの革命であった。
ことさらに憲法に総意とされたことにはそれなりの意味があったのであろう。
平民である国民の意思が届くことを旨としたものであった。
天皇の存否を国民にゆだねたのだ。
それは、国会議員にゆだねられたものではない。
愛子天皇問題は国民の総意によるものでなければならない。
憲法にある総意とは国会議員を指すのではない。