「クライマーズ・ハイ」読了 | 明日に向かって台上前転

「クライマーズ・ハイ」読了

横山 秀夫
クライマーズ・ハイ

なんで、日航機事故にこんなにひきつけられるんだろう。


当時私は中学生。


テレビでその大きな事故を見た。

私と同年代の女の子が自衛隊のヘリに収容されるシーンを、今もまざまざと

思い出す。


しかしその頃は幼かった。

命の重みも、事故が抱える背景も、なにもわからなかった。


しかし大人になり、守るべき自分の家族を持ち、そしてインターネットという情報ツールを通じてもう一度この事故に出会ったときの衝撃は、当時とはまた違ったものとして、私に何かを与えた。


ボイスレコーダーを聞いたから?

検死医の信じられないような手記を読んだから?

そして現場の写真を・・・見た・・から?


たしかにどれもショッキングだった。


でも違う。


そんな怖いもの見たさのような感情でこの事故にひきつけられるのではない。


墜落する飛行機の中で父が家族に宛てた手紙。

たったひとり子どもを搭乗させてしまったことを悔やむ両親。

誰もが知っている歌手も、この事故で命を失った。


命のはかなさ、かけがえの無さ。


そして500人を超える人命が失われたにもかかわらず、事故原因にかかる霧。

どこかに見え隠れする政治の力、秘密の匂い。


わからない。

20年以上たった今でも、真実本当のところは闇の中なのだ。

(公開されているボイスレコーダーは割愛されており、完全版ではない)


今後すべてが詳らかにされることがあるのだろうか。


「クライマーズ・ハイ」、大事故に翻弄された人は膨大な数だっただろうが、その中の地元の新聞記者の葛藤が鮮明に書かれている。


作中、「あんなに泣いてもらえればねえ」という老婆の語り、そして「大きい命と小さい命」という現実。

これもずいぶんと考えさせられることだ。


大事件、大事故のかげで小さな事件・事故で亡くなっていく人。

大きく報道されることもなく、大勢に涙されることもなく、でも同じ命という存在。


昨年ひっそりと煙になっていった父を見送ったとき、私もそう思ったものだった。


これが報道の限界というものなのかな。


客のいない(読み手の無い)ものは扱わない。


まあねえ。