IMG_9222_3000_『翠雨の人』

 

☆『翠雨の人』(伊与原 新・著、新潮社、2025年)☆

 

 日本は「三度被爆した」と言われることがある。一度目は広島に、二度目は長崎に投下された原子爆弾による被爆。そして三度目は、太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で行われたアメリカによる水爆実験によって、日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が被爆した事件である。広島、長崎の被爆から9年ちかくが経過した1954年3月のことであった。

 この事件で、第五福竜丸が浴びた「死の灰」(放射性降下物)を化学分析(微量分析)で正確に測定したのが猿橋勝子(1920 - 2007)である。本書『翠雨(すいう)の人』は、伊与原新さんの手による猿橋勝子の生涯を描いた作品(フィクション)である。

 猿橋の生涯については、理論物理学者の米沢富美子さん(1938 - 2019)が執筆した評伝『猿橋勝子という生き方』(岩波科学ライブラリー、2009年)があり、すでに本ブログでも感想を記している。伊与原さんも『翠雨の人』の「あとがき」で米沢さんによる評伝に対して謝辞を述べているように、『猿橋勝子という生き方』が『翠雨の人』の土台となっているのは明らかである。

 第五福竜丸事件は猿橋の生涯を語る上で欠かすことのできないエピソードである。当時気象研究所の研究官だった猿橋は、この事件が一つのきっかけとなって、雨水や海水などの放射能汚染の研究調査を進め、結果的に原水爆禁止運動を後押しした。

 猿橋による微量分析の手法と精度に関連して、アメリカ(カリフォルニア)に設置されたスクリップス海洋研究所(Scripps Institution of Oceanography)で行われた、猿橋と当時分析化学の権威であったフォルサム博士との「分析測定法の精度競争」も、猿橋の生涯を飾るクライマックスの一つである。

 また、憧れの人であった吉岡弥生(東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)創設者、1871 - 1959)の大人気ない態度に失望し女医への道を断念、創立されたばかりの帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)へ第一期生として入学し物理学を専攻したことが猿橋の人生の分岐点となった事実は、読者の耳目を集めるもう一つの有名なエピソードである。

 女性として初めて日本学術会議の会員に選ばれたことや、「女性科学者に明るい未来をの会」を設立し「猿橋賞」を創設したことなど、ジェンダーに関連した話題にも事欠かない。自らの人生を顧みて、女性科学者の育成こそ猿橋の大きな目的となったにちがいない。それは同時に科学のあり方を問い直し、科学者自らも人間性を磨くことで平和を構築する道を模索する意図もあったのだろう。

 これら興味深いエピソードの概略は、もちろん両方の書籍に記載されている。あえていえば、米沢さんの評伝は「科学」の視点が強調されており、『翠雨の人』に比べてやや難解な印象を与える。一方、伊与原さんの作品は「物語」として執筆されているので、映画やテレビドラマを見るようにストーリーを追う楽しさが味わえる。

 だからといって、物語に含まれる科学的な内容がおろそかにされているわけではない。伊与原さんご自身がもともと地球科学の研究者であったので、科学的な記述も信頼がおけるはずだ。しかしそうはいっても、約120ページの『猿橋勝子という生き方』という科学書を、その倍以上の約280ページに及ぶ『翠雨の人』という物語に膨らませるにあたって、どれだけ取材や綿密な調査を行ったのだろうか。あらためて苦労が忍ばれる。

 ただ、読み終えて気になったのは、「あとがき」で「この物語は猿橋勝子氏の生涯に基づいたフィクションであり、一部架空の出来事や人物が含まれています」と書かれていること。その「架空の出来事や人物」とはどの事であり、どの人物なのか、少なからず気になってしまう。厳密な研究書や伝記ではないのだから、あまり細かなことに拘泥せず、物語を楽しむことに徹した方が良いのかもしれない。

 なお、NHKアーカイブスに猿橋勝子の実物の映像が残っている。『あの人に会いたい』の短縮版であるが、話しぶりなど猿橋の人物像の一端を知ることができる。

 さらにもう一つ、猿橋勝子の生涯をドラマ化した番組が2021年の年末にNHK『コズミック フロント』で放送された。猿橋勝子をファッションモデルの水原希子さんが演じた。番組のオープニングとエンディングで、水原さんが力強く舞い踊るダンスを取り入れるという斬新な演出だった。ちなみに、猿橋が師と仰いだ三宅泰雄博士は筒井道隆さんが演じていた。

 

 IMG_9234_3000_『MY LIFE』

 

 また、「女性科学者に明るい未来をの会」創立二十周年を記念して2001年に英文で出版された『MY LIFE Twenty Japanese Women Scientists』では、第1回から第20回までの「猿橋賞」受賞者の業績などがエッセイ風に紹介されている。英文自体はそれほど難しいものではないので、もし図書館などで見かけたら一度手に取ってみるのもわるくない。ちなみに表紙顔写真の一番上の列の右から2番目が『猿橋勝子という生き方』の著者である米沢富美子さん(第4回受賞者)である。

 猿橋の生きた時代に比べれば、いまや女性科学者の数も増え、理系に進む生徒たちも増加傾向にあるように見える。しかしいまだに、目に見えないところで、たとえば意識下でジェンダーギャップが存在しているようにも思える。自分も含めて、今一度、意識下に隠されたさまざまなギャップを掘り起こし、開かれた場で語り合う機会が必要かもしれない。

 猿橋たち先人の多くの方々が経験した戦争、とくに被爆の実態は忘れてはならない記憶の遺産である。それにもかかわらず、いまも世界各地で戦争や紛争が勃発し、核による脅しも公然と叫ばれることが多くなってきた。核爆弾の破壊力や放射能の影響力のみならず地球温暖化など、猿橋たち科学者が営々と築き上げてきた科学的事実を蔑ろにし、否定する為政者も少なくない。

 「翠雨」とは新緑の若葉に降る雨だという。雨はなぜ降るのだろうという疑問が、若葉のような勝子を科学の道へと歩ませた。ところが『翠雨の人』の第四章(最終章)「虹橋(こうきょう)の頃」で「戦争が終わっても、真の平穏は訪れてくれなかった。黒い雨と白い灰。澄んだ雨ではない、天から降り落ちてきた人間の業が、勝子をまた闘いに向かわせた」と書かれた一節がある。猿橋勝子ならずとも、いつの日か、澄んだ翠雨と空にかかる虹を平穏な心持ちで眺めたいものである。

 

 もみじ

 

※2025/08/09:タイトルと本文最終段落など若干修正しました。