追い求めるべきは平均より自分の人生
王位争奪編。
キン肉マンビッグボディは、スーパーフェニックス相手に何もできないまま完敗をきっしました。
ゆでたまご著『キン肉マン第26巻』集英社
そのせいで、“劣等王子”というありがたくないキャッチコピーがついて回るようになってしまいました。
王位争奪編以降、彼がどのように生きてきたか定かではありませんが、さぞかし劣等感に満ちた日々を送っていたであろうと推測されます。
平均的な人などいない
劣等感にさいなまれる…
我々の多くも同じではないかと思います。
人と比べて自分が劣っている、情けない、悔しいと感じることってあるのではないかと。
劣等感をおぼえる要因として挙げられるのは人との比較、
そしてもう一つが「平均思考」。
40代の平均年収はいくら、平均貯金額はいくら、
平均体重、SNSの平均フォロワー数や友だちの数…
さまざまな平均値を気にし、劣等感をおぼえることってあるのではないかと思います。
小さいころからそうでしたよね。
学校のテストの平均点を気にし、偏差値教育にさらされてきた。
我々は平均値を嫌というほど意識させられてきましたから。
大人になった今でも、主に収入面で平均値の数字を時々耳にすることがあるでしょう。
が、惑わされる必要はありません。
なぜなら、平均値というのは「統計上の単なる数字」だから。
実際には平均値から外れている人ばかりです。
たとえば40代の人が100人集まりました。
内、年収300万円前後の人たち99人、年収1億円の人が1人。
この100人の平均年収は397万円になります。
この例えは極端かもしれませんが、ひとつ言えるのは、
平均値は幻想。
平均値ジャストの人はいないと考えたほうがいい。
100歩ゆずって、年収が平均値ジャストの人がいたとしても、その人は身長や体重、友だちの数など何らかの面で平均値から外れているはずです。
ある部分が平均的、
だとしても他のある部分では秀でていて、他のある部分では劣っている。
イケてる部分もあれば、イケてない部分もある。
それが自然な姿であり、むしろそれが“平均的”
平均を追求する時代は終わった
にもかかわらず、我々が平均値を気にしてしまうのは、先ほども言ったような偏差値教育が根深く浸透しているから。
それから親世代の影響もあると考えられます。
我々キン肉マン世代の親は現在70代くらいですよね。
団塊の世代とも重なりますが、この世代の人たちは平均が善、普通が善という横並び社会の中生きてきました。1億総中流の時代ですね。
私は22歳の時一度プロレスをやめたのですが、そのとき母にこう言われました。
「普通の人の体になってよ」
職業、考え方、身なり…
何事も周りと違っていてはいけない、
普通が良い、平均が安心。
親の忠告やメディアなどで見られる統計上の数字が「平均的であれ」、もしくは「平均以上であれ」と圧力をかけてきたわけです。
ですが、もう時代が変わっています。
確かに、昭和のその当時は平均や普通を追い求めることでうまくいったのかもしれません。
それなりの幸せを感じられたのかもしれません。
もちろん現代においても、あなたが平均や普通を追い求めることで幸せを感じられるならそれでもいいと思います。
しかし、今後は個人の時代。
一人一人の個性なり世界観なりが重要視される時代。
平均思考に逆行する時代ともいえます。
誰のための人生か?
時代背景を考えてもそうですが、
「何のために生きてるのか?」を考えるとき、
「平均値に近づくため」
「平均値を上回るため」
それじゃ、寂しくないですか?
平均や普通を基準にした人生って。
平均という幻想を追い求めていては、空虚感が待っていると思います。
平均を追い求めれば追い求めるほど、自分というものが消えていく。自分の人生が遠ざかっていく。
自分として生きるのを捨ててまで、平均を追い求める価値ってあるのでしょうか。
我々は平均的になるめに生きているわけではないと思うんですよ。
繰り返しますが「平均値の人」なんていないのです。
平均値とは社会やメディアが打ち出している統計上の数値であり、統計上の単なる結果。
その数値に左右されて物事を判断したって、自分の人生を生きることにはつながらないのです。
平均なんてクソくらえ、そのくらいの意気込みでOKかと。
追い求めるべきは平均値ではなく自分の人生なのですから。