JR・山陽姫路駅から徒歩約15分のところにある播磨国総社 射盾兵主神社は歴代の姫路城主の崇敬をうけてきた大社です(^-^)
1567年永禄10年に家督を継いだ、官兵衛の父・職隆は総社の拝殿や神門を再建、官兵衛も1584年天正12年に制札を与えるなど、その保護に努めています(^-^)/
黒田家譜によると1580年天正8年秀吉より戦場において旗を立てる許しを得た官兵衛は、父・職隆と相談し、先祖にあたる近江の佐々木家の旗を参考に新しく定め、仕立てあがった後に総社にて7日間祭礼を行い、ご神体をお移ししたそうです(^-^)/
平成26年現在、総社には家譜の記載を忠実に再現された長さ約3,6m、幅約60cmの中白(なかじろ)、黒白黒デザインの旗が復元されていますo(^▽^)o
播磨国総社から北上、廣峯神社の東側に位置する増位山随願寺へ(・ω・)/
随願寺は聖徳太子が高麗の僧・彗便(えべん)に建立させ、後の天平年間に行基が中興したそうです。
もとは法相宗でしたが833年天長10年に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた名刹です!
官兵衛の叔父・黒田高友は出家して僧になり、休夢と称して増位山の地蔵院に移り住みました。
秀吉に仕え和歌などの文才に秀で、官兵衛の生母・明石氏とともに、文人官兵衛に大きな影響を与えたそうです(^-^)/
また、増位山は三木の別所長治との間でたびたび戦場となり、1573年天正元年に別所の軍勢が寺塔をことごとく破却しましたが、秀吉によって再興されました。
随願寺の木造毘沙門天像、本堂、開山堂等は国の重要文化財に指定されています(^-^)
榊原家は譜代大名の中の名門で徳川四天王の1つで、この墓所は1665年寛文5年に長子の政房によって造られたものです。(上画像参照)
境内には池田輝政公墓も安置されています。
随願寺のお堂、仏像は2014年5月28日発売のDVD・新TV見仏記10播州姫路編に神積寺、斑鳩寺、書寫山圓教寺、弥勒寺とともに収録されていてこのDVDの『真のハイライトはお厨子からひょいっと顔を出したり鬼のお面を被ったりと愉快な随願寺のご住職?!』だそうです…DVDケース裏表記参照(^-^)/
随願寺、廣峯神社から西へ県道516号線を進むと北平野台町の峠に心光寺があります。
もとは佐土村(別所町佐土)の真言宗梨原寺で御着城主小寺家の菩提寺でしたが熱心な浄土宗信者であった官兵衛の母・明石氏の死去を契機に職隆が浄土宗寺院に改宗改築し黒田家の菩提寺としました。
心光寺は職隆が姫路城に移るとともに佐土村から姫路に移され1608年慶長13年池田輝政の町割りの際に坂田町(現・保健所のある所)へ移されましたが昭和初期に国道2号線が境内を貫通し戦後の復興事業により寺地が減少した為、1990年平成2年に現在地へと移ってきました。
心光寺は官兵衛の祖父・重隆公、重公内室、官兵衛の父・職隆、職隆内室らの位牌が祭られた黒田家御霊屋、黒田家廟所から移築した門、燈篭が残されているそうです。
姫路市坂田町にある中央保健センター前(2号線沿い)には心光寺跡の碑があります。
あまり目立たない碑ですが保健所の前を歩いて通る機会があれば一度立ち止まってみてはどうでしょうか?(*^▽^*)
官兵衛ゆかりの地めぐり番外オマケのコーナー
姫路市網干区興浜にある鶴立山 大覚寺を紹介します(^-^)/
大覚寺はもとは真言宗のお寺でしたが1556年弘治2年この地に移り浄土宗に改められたと伝えられています。
また姫路ゆかたまつりの後6月26日~28日の三宝荒神夏まつりは網干ゆかたまつりとして有名です(*^▽^*)
大覚寺には現在拝観することができませんが、秀吉の播磨攻めに際し、信長が網干の村民に狼藉を働かないように出した朱印状が残されています(^-^)
以上、ぼくが官兵衛ゆかりの地を行くVol.6 総社・随願寺・心光寺へ編でした(^-^)/