何から書こうかな、、、
ずっと「書かなきゃ」と思いつつも
どうしてもキーを打つことが出来ずにいました。
でも。
父や私のことを少しでも気にかけてくれている人が居る。
本当に、ありがとうございます。
2012年4月5日
父が永眠致しました
「自宅に帰りたい」という父の意見を尊重し、
3月5日にがんセンターを退院しました。
帰りたいと言い出してから、約1ヶ月近く待たせてしまったけど。
身体が不自由になった父を自宅で介護するため、
介護体制を整えることが私の責務でした。
1月に半身麻痺が出だしてから、
要介護4(退院時には5でした)の介護認定を受けていたので
訪問看護と医師の往診を組み合わせて
自宅での介護は可能になりました。
とにかく、一秒でも早く家に帰してあげたかった。
もうギリギリの瀬戸際で、頑張っていた父。
あんなに待たせてしまってごめんね。
待っていてくれて、ありがとう。
1月27日にがんセンターに入院して、
2月に入ってすぐくらいから嚥下障害が酷くなり
おかゆでさえろくに飲み込めずむせることが多くなりました。
「誤嚥性肺炎になると危険」とのことで、
食事はおろかお茶を飲むことさえもストップされ、、、
みるみる痩せ細っていく父。
入院した時には、
介助があれば車椅子に座ってトイレに行くことも出来ていましたが
それもすぐできなくなっていく。
車椅子に座って、院内を散歩しに行くと
てんかん発作が起きる・・・
その度、「このまま逝ってしまう可能性もある」と言われていました。
もう、一人では何も出来なくなってしまった。
家に戻る車中で、
「何が起きても不思議ではないから
いざという時の為に、新しい服を用意しておいて」とまで言われた。
そんな父を、家に連れて帰るという選択をする。
正直とても悩みました。
「在宅での看取り」
決して完治することはない。
看取るための帰宅である。
父自身、死を覚悟したからこその意思表示であったと思います。
このまま、病院の緩和ケア病棟に居れば、
少しは命を永らえることが出来るかも知れない。
けれども、、、
それは父の望むところではなかった。
命を縮めることになろうとも、
家に帰りたかった。
「次にこの道を通る時は、生きていないかも知れない」
そう覚悟した帰り道を、民間救急車を利用し帰る。
1時間と少しかかる道のりを無事に過ごせるか懸念されていましたが
無事家に帰宅することが出来ました。
でもね。
帰ってきた父、
身体も全然動かせなくなっていて
言葉を発することも出来ない。
父は舌根沈下が酷くて、
通常の呼吸音がいびきのような大きな音がする。
帰宅したこと、わかってたかなぁ。
この日から、私と主人と息子、
家族みんなで実家に住むことに。
3月6日、帰宅した次の日。
朝、学校に居た私に母からTEL。
「パパの様子がおかしい。どうしよう・・・」
急いで帰宅。
訪問看護の看護師さんが来てくれていた。
階段を駆け上がって父を見ると、
真っ白な顔をして
浅い呼吸を一生懸命している父がいた。
血中酸素濃度を測定すると、
30しかなかった。
苦しそうだった、、、
やっと家に帰って来たのに!
安心して、もう逝ってしまうの?
パパ、
大丈夫、ここにお母さんも私もおるよ。
白くなったパパの手をずっと握って、
肩をさすり続けた。
看護師さんが、「会わせたい人に連絡を」って。
母が親戚たちに連絡をしている間に、
看護師さんから「エアウェイ」という器具を口腔内に挿入して
舌根沈下を軽減させたら回復するかも知れないと言われて
「エアウェイを使用しますか?」と鬼気迫る表情で尋ねられ、
「お願いします」って答えた。
そうしたら!!
エアウェイを挿入してすぐ、父の呼吸は落ち着き
血中酸素濃度も回復してきた!!
在宅酸素の機械はめいっぱいの出力だったけど、
ちゃんと脈もあって、顔色も良くなってきた!!!
舌根沈下による気道の閉塞が原因で、
低酸素の状態になっていたらしい。
もうダメだ・・・
からの、奇跡的な回復!
喜ぶ私たちに看護師さんは
「根本的なことは何も変わっていません」って言った。
わかってるよ。
わかってる。
でも。
父はまだ生きれるって。
それがただ嬉しかった。
奇跡的な回復を果たした父。
エアウェイを挿入したことで、退院前よりも呼吸がしやすくなり
とても静かな息をするようになった。
低酸素状態を脱したことで、
今まで朦朧としていた意識も回復し、
なんとなんと、会話をすることが出来るようになった。
だって、帰宅した時は、
いくら話しかけてもウンともスンとも言えなかったから。
意識レベルはゼロに限りなく近い状態。
父とコミュニケーションが取れるようになるなんて
想像していなかったから、本当に嬉しかった!!
朝起きて、
「パパ~、おはよう!」って話かけると、
目でこちらを追いかけてくれる。
「学校行ってくるね~!」って話しかけると、
『いってらっしゃい』って声にならない声で答えてくれる。
「パパ~、ただいま~!帰って来たよ~」って話かけると、
『おかえり』って、口を動かしてくれる。
たまに声が出る時もあって、
父が喋るたび、赤ちゃんが喋った時のように
私たち家族はキャッキャと喜んだ。
こないだまで、たくさんお話出来てたのにね。
でも、このカタチは、
私の望みでもあった。
普段どおりの日常の中に父が居る。
今までと同じ。
そうすることが、
父も安心するだろうって思っていたから。
父は呼吸の状態は良くなったが、
嚥下障害は相変わらずで、もうずーっと飲まず食わず。
足も手も、泣きたくなるくらい痩せ細ってしまっていたけど
1日500mlの点滴で、何とか生きてきた。
家に帰って来てからはてんかん発作は一度も起きず、
毎日訪問看護師さんに身体を拭いてもらったり
着替えさせてもらったり。
点滴なんかは、病院と違って、
看護師さんが刺してくれるけど
点滴のルートを外すのは私たち家族の仕事。
寝返りも打てない父のかわりに、
2~3時間おきに体位変換をするのも家族の仕事。
母と私とで協力してペラペラに薄くなった父の身体を傾ける。
父の介護をしていて一番辛かったのが、
痰の吸引。
卓上の吸引機で、今まで病院の看護師さんがしていたことを
私たち家族がしなければいけない。
吸引は、見たことがある人ならわかるが
吸引される方はかなり辛い。
でもちゃんと痰を取っていかないと
肺炎になる危険性があるから、
結果父のためになる。
「パパ、ごめんよ。辛いことするけど、我慢してね」
そう声かけしながら、
痰を取る。
最初母はこの吸引を恐がって、
もっぱら私の仕事だったけど
私が居ない時にはしっかりとしてもらわなければいけない。
母が吸引する時は、父は目で訴えてくる。
「やーめーてー」って。
私が吸引する時は、頑張ってガマンしてくれるのだけど。
やっぱりそうかー。夫婦だものね。
ここまで来ても、父の威厳を保とうとしていたのかな。
奇跡の回復からは、ずっと平坦な感じ。
悪くもならないけど(見た目)、良くもならない。
でも、医者に告げられた命の期限は
着々と、そして確実に近づいて来ている。
いつ?
どんな感じに?
看護師さんには、
・棺に入れるモノを用意する
・最期に着させてあげる服を用意する
とか色々アドバイスをいただいたが、
今ここに!
必死で死に向かって生きようとしている父がいるのに、
私も母もそんな気になれず。
私の家も、ずっと空けておくわけにもいかないので
毎日風呂に入りに帰宅していた。
あの日も、いつも通り風呂に入ってから、
実家に戻った。
私たちが戻るのはいつも0時近くになる。
先に息子と母は父の隣で寝ているので、
いつもはそのまま自分たちの寝室に向かうのだけど、
あの日は母が起きていて、父の部屋に明かりがついていた。
父の様子を見ようと思って部屋に入ると、
「どうも眠れん、、、パパが気になる」と母。
ふと父に目をやると、
見るからに呼吸がいつもと違う。
何かあったら、救急車ではなく、
訪問看護ステーションに連絡をすることになっているので
1分間の呼吸数を数えてすぐさま報告しようと、
父の呼吸を数えることにした。
一度の呼吸がかなり浅い。
一回。
二回。
三回。。。
。。。どれだけ待っても、
四回目の呼吸は聞こえなかった。
パパ?
パパ??
父の肩をさすりながら、
必死で呼びかけた。
いくら必死に呼びかけても、
最期の息をした時のまま動かない父。
ああ・・・
ついにこの時がきたんだ
パパ、よく頑張ったね。
みーんなちゃんと見てたよ。
家族全員揃うまで、
最期の最期まで待っててくれたんだよね。
私、夫、息子、母、、、
いつもは寝ている時間なのに
なぜか息子も母も起きていて、
私と夫が風呂から帰って来るまで、
頑張って待っていてくれた。
だって私、
パパの最期の息、ずっと見てたよ。
パパの命の灯火が消える瞬間、
パパのことずっと見てたよ。
お母さんもずっとパパの手を握ってた。
夫も、一緒に、じぃじを見てた。
ひとしきり泣いた後、
訪問看護ステーションに連絡。
エンジェルケアをするために、看護師さん来てくれる。
在宅での看取りのいいところは、
最期のお世話を家族も参加するところ。
母と私と看護師さんで、
62年間父の肉体として働いてくれた身体を清めていく。
まだ身体は温かい。
新しい着物に袖を通す。
死に化粧は私がした。
長い闘病で、痩せこけてしまった父が
生前の柔らかい表情に見えるように、
頬にふんわり色を入れる。
最期のお世話が終わる頃には、
もう段々と父の身体は冷たくなっていた。
こういう時が来るって、
覚悟はしてきたつもりだったけれど
やっぱり、、、辛い。
それからは、世間が言うとおり
「悲しむ間もない」ほど忙しく、
葬儀の手配に追われた。
4月5日0時10分に父が逝去
翌日は日が悪かったので、
通夜まで丸1日あったから
少しは自宅で父と最期の時を過ごすことが出来た。
葬儀の日。
自宅から葬儀会館に向かう途中も、
斎場へ向かう途中も、
目にまぶしいほど桜が満開だった。
優しく微笑む父の遺影を胸に抱き、
最期に桜並木を一緒に歩いた気分だった。
桜の舞う季節に逝った父は、
毎年、桜の花びらとなって
私たちの元へ舞い降りるかも知れない。
毎年毎年、桜を見ると
父のことを思い出すんだろうな。
父は、最期の最期まで、父でした。
残される私たちに、
「生きる」ことと「死ぬ」ことを
身をもって教えてくれました。
賛否両論ありますが、
在宅での看取りという選択は間違っていなかったと思います。
在宅だから家族の時間を持てた。
在宅だから日常の中で父と過ごせた。
でも。
もっと生きたかったよね、パパ。
もっともっと話がしたかったよ、パパ。
もっともっと一緒にご飯食べたかったなぁ、パパ。
もっともっと一緒に笑いたかったなぁ、、、パパ。
これからは、手を合わせ、
パパに話しかけるから、
どうか私たちを見守っていてね。
2010年7月に、
【小細胞肺がんステージⅣ】と告知されてから、
2012年4月5日まで約1年9ヶ月。
本当にすごく頑張っていたと思います。
本人にしかわからない苦悩もあったと思います。
私は、
「父が最期を迎える時は、痛くも苦しくもないように」
・・・そうお祈りをしていました。
ちゃんと祈りは届いたでしょうか?
ちゃんと苦しみから解放されたかな?
四十九日も済んだ今、
黄泉の国へと旅立てたでしょうか。
痛みも苦しみもない世界で、
若くして亡くしたお父さんに会えたかな?
今は笑顔で居てくれていると信じてやみません。
本当はもっと詳しく記事にして、
みなさんの参考になることを書けると良かったのですが。
御報告まで。。。
今日は2度目の月命日。
父が亡くなってもう2ヶ月。
私も今という大切な時間を大事に生きたいと思います。
長らくお付き合いいただきまして、
ありがとうございました。