雑感「あきらめること」は明らかに見ること | ニコリーヌの 夢見る頃を過ぎてもSAPHO症候群とともに

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大天使ガブリエル像(富良野・風のガーデンにて)
 
 
 
歳を重ねることは、悪いことばかりではないと思う。
それは、いったん置いて…。




「あきらめる」とは「明らかに見る」ことなのだと、遠くへ旅立ったった友人から聞いたことがあった。


なぜ この数年間、自分が喪失感に苦しむのかと考えてみた。
それは、失うことに抗う気持ちがあるからだろうと気がついた。

老いとともに、失うものが増えていくことは仕方のないことだ。
それに抗っても無理なことなのだ。
つまり事実を容認出来なかったということだ。。。



老いにともなうさまざまな面での喪失。
これは自然なことなのだ。
そして 誰にもおとずれることなのだと、 素直に受け入れることを心がければ、喪失感による気鬱の苦しみは軽くなるのだろうと考えた。


誰にでも老いはくる。誰もが、自分の身体と頭の衰えに老いを実感し、
子供は成人すれば自分が育った家から離れて行く。
社会的な地位が無くなる。変な話、詳しくは分からないが、65歳を越えると保証人になれないとも聞いた。
故郷や実家が消滅することもある。
家族、先輩、友人、知人、近所の人々の死など、まわりの多くの死別に見舞われる。
 


これらを含む老いを受け入れるということを明らかに見て「あきらめる」ことをしたうえで、できる範囲で明るく楽しく生きる工夫をしよう。と考えた。
 
おしまい。