前回の続きです!


第2話から5話はパラオで滞在したホテルや、街のこと、イルカの海でイルカと泳いだ事など書いてますが、飛ばしまして

第6話目のパラオ旅行記完結編です。


よろしかったら最後まで読んで頂けると祖父母の供養になるかと思い喜びます乙女のトキメキ


出国前のブログはこちら下矢印


この旅行の最大にして絶対な目的は、ペリリュー島を見ることだった。

私の母の父は第二次世界大戦の最後の最後にペリリュー島に行かされ、この島で戦死しています。出兵してからたった1年少しで終戦してるんです。もし、もう少し早く戦争が終わってたら・・・
お母さんは生まれてすぐにお父さんが徴兵されてるのでお父さんの面影も知らないそうです。お母さんのお父さんは「けんちゃん」と言います。おばばも「けんちゃん」と呼んでいたそうです。

コロール島(ホテルや空港があるパラオの中心部)からボートで約1時間。
地図で見ても結構な距離です。


マリンブルーの海と珊瑚で出来てるロックアイランド。パラオのロックアイランドは有機珊瑚で出来てるので、年々形が変化し続けるんだって。なんかモコモコしてて可愛いんだな。







日本人ガイドはけいこさん!私よりも少しだけお姉さんで、超サバサバ系でかっこよろしい



英語が少々苦手ってところが完璧じゃ無くて可愛いところ

現地のガイドはジェームス・イシダ。
お爺さんが日本人の日系なんだけど、日本語はダメ。けいこさんも微妙なので通訳はうちの姉がすることに

姉が一緒で良かった。

ジェームスに散骨したい事を告げると、「好きな時に好きなようにしたらいいよ!」とのこと……ジェ、ジェーームス・・・


でもさすがジェームス。これから周るポイントでいいところがあったら手伝ってくれるし、もし、迷ったら帰りのボートの上から海に撒いてあげればどう?とのこと。


散骨という行為自体は全然ノープロブレムってことで一安心。www一日かけていろんな所見たんだけど、ここでは印象深かった所だけ紹介します。


千人洞窟。
この岩?の中が迷路みたいに掘られていてものすごく入り組んでます。入ったら出れない感じ・・・
もう勝利できないと確信した日本兵がここで自害したそうです。その数が千人・・・
もしかしたら、けんちゃんも・・・・




ガイドのけいこさんは「私はここダメなんです・・・・」と言って出口で待っててもらいました。けいこさんは霊感がかなり鋭いらしい

私達は全く平気なのでジェームスの案内の元、洞窟を歩きました。光がひとつも入らない。懐中電灯の光が無ければ真っ暗闇です。
「ここに10人」「こっちに15人」とジェームスは言っていました。最期をこんな暗いところで迎えなければならなかった無念を思うと胸が張り裂けそうでした。


日本軍の司令本部
ここが心臓部。天井には2カ所爆弾が落とされた跡が。1トンの爆弾だったそうです。丸くぽっかり穴があいてるのに、柱がそのまま。勿論階段もそのまま残ってるので2階にも行けます。今、こんな建物あるのかな?1トンの爆弾2回落とされても崩れないなんてスゴイ。








そしてここが有名なオレンジビーチ。米軍が最初に上陸して来たビーチ。

ペリリュー島のビーチには全部色の名前が付いてるんだけど、それは後付けで、ホントの理由はこのビーチが兵士の血で海がオレンジ色に染まったということからだそうです。

写真でもわかるようにビーチなんてほんの10m位かな。ここで、米兵が上陸してきても、ギリギリまで撃たず、出来るだけ至近距離で確実に倒せとの命令で、日本兵はジャングルの中に身を潜め、その時を待ったそうです。
ここでの守りが「米軍は3日もあれば、ペリリュー島は落とせると思っていた」のに、日本軍はなんと3ヶ月も持ち堪えた要因だったのかも。

圧倒的な戦力の差の中、米軍の死者8千人。日本軍は1万人。戦闘力の差に比べて大差無いと思った。

どれだけの激戦だったのか・・・









今はこんなに穏やかで、こんなにキレイで・・・
想像も出来ない。こみ上げる。腹の中から、こみ上げた。くらくらした。
ジェームスが古い日本語で書かれてる本を持ってきてくれていた。セロテープで補強していて、その古さがわかる。
戦後に出された写真集みたいなものだ。
オレンジビーチが血に染まり、死体が無数に倒れている写真もある。確かにここだ。

墜ちたままのゼロ戦機、止まってしまったままの戦車、ヤマが外れて使わなかった大砲、終戦後何カ月も隠れていた日本兵34人が呼びかけに応じて姿を現した所。「サクラサクラ」と最後に通信し、二度と誰も使えないように自ら破壊した通信基地。島中にある防空壕。そのままそのまま残っている。67年の月日が流れただけ。


そして、クライマックス。

日本兵の戦没者を偲ぶ「平和記念公園」
ここでおばばの散骨をすることに決めました。






けんちゃんはどこで死んじゃったのか、わからない。
どんな最期だったのかもわからない。

でも、やっぱりここがふさわしいと思った。
かなり足場が悪いが岩を少し進めば海がある。パラオに来て初めて見た生きている海だ。波がある。岩に当って砕ける波がある。荒々しくは無いが、静かでも無い。

私は首からカメラ片手にビデオ、空いてる片手で2号の手を繋ぎ、1号は姉と一緒に。とても不安定な足場を行き、先に行ってるジェームスとお母さんを気にしつつ1秒たりとも見逃してはいけないと必死だった。少し離れた所で見ていた。
けいこさんは、荷物をみていてくれるとのことで、遠くから見守っていてくれた。

お母さんがギリギリ先端まで行った。怖がりのお母さん。運動神経ゼロのお母さん。大丈夫かな・・・

ジェームスが身振りで撒いていいよと言っているのがわかった。


お母さんが動いた。カメラのフイルムケースに少しだけ入れてきたおばばのお骨。フィルムケースのふたを取り、撒いた。




「おかーーーさーーん。けんちゃーーーん。」と何度も大きな声で言っていた。おばばが死んだ時も泣かなかったお母さんが泣いている。手を合わせ泣いている。

もっと言いたい事があったはずだ。でも、もう言葉にならなかったのだろう。



私達も「おばばーーーー。けんちゃーーん。」とつられて叫んでいた。

写真あんまり撮れなかった・・・後悔。


お母さんがジェームスと握手をしてお礼を言っていた。。

お母さんの気持ちが済んだのを理解し私達もけいこさんの待つ公園内に戻った。

足場が悪い緊張と、ちゃんと散骨できるかどうかと心配してたのがあって感動というより緊張だった私は、けいこさんの一言で全ての力が抜け、号泣してしまった。暫く涙は止まらず、それはその後も思い出すたび何日も続いた。


けいこさん、戻って来た私達に「けんちゃん、ちゃんと迎えにきてくれてたよ。おばあちゃん、ペリリュー島のことはわかんないからって、心配して迎えにきてくれたんだね。」って。

67年、正確に言うと68年。終戦の1年少々前に引き裂かれてしまった二人。
まだおばばが25歳の時だよ。
どんなに辛かっただろう。
妻と乳飲み子を残して死ななければならなかったけんちゃんもどんなに辛かっただろう。

68年の時を経て、今、再びパラオの海で再会できたと信じたい。

時間を取り戻して、二人仲良く暮らしていると信じたい。


私達のこの旅が意味があったものと信じたい。

おばばとけんちゃんがいたから、今の私が幸せで生きていられる。

ありがとうと伝えたい。

少し遠いけど、二人の楽園にまた遊びに行くね!!