HAPPYちゃんのイベントについての発信を聞くたび、私はどこか落ち着かなかった。

 内容はもちろん聞きたい。 

だけど、分かろうとする自分の身体が、いつも少し緊張していた。 

私は無意識に、発信を「参加できるか、できないか」という軸で聞いていた。 一緒に進めているのか。 置いていかれていないか。 その確認をしながら、言葉を追っていた。

 だから、聞いている最中にジャッジも生まれる。 

参加できるか、できないか。

 賛成か、違和感か。 



その判断の裏で、私は自分の立ち位置を測っていた。 


HAPPYちゃんの商品を買うときも同じだった。 純粋に欲しいから、というより、 これを買えば安心できる気がした。

 遅れていない側にいられる気がした。 



その決め方が変わったきっかけが、リチュアアライブだった。 

リチュアアライブの場で、

 「どう思うか」「どう理解するか」より先に、 自分の身体の反応に目が向いた。 

背骨がどう感じているか。

 立ったとき、どっしりしているか。

 前に引っ張られるようなワクワクがあるか。


 そこで初めて、 私はこれまで、頭で参加可否を決めていたことに気づいた。


 しかもその判断は、興味や喜びではなく、 畏怖から来ていた。 

相手を上に置き、 そこに追いつけるかどうかで自分を測る。 

その状態で聞いていたら、 どんな言葉も、学びではなく試験になる。 


これからは情報の受け取り方そのものを、背骨と仙骨に委ねていきたい。

聞くか聞かないか。 イベントに行くか行かないか。 

背骨で感じて決める。 

身体が前に開く感じがあれば、行く。 

重さや縮みを感じたら、今回は行かない。


 理由は後からでいい。 


HAPPYちゃんの発信を

「自分ごと」として受け取るようになってから、

比べなくなった。 置いていかれる感覚が、薄れていった。

 発信は、参加資格を試す場ではない。

 遅れを測る物差しでもない。

 世界の一つの視点にすぎない。


 畏怖に気づいたことで、 私はやっと地面に立った気がしている。

 尊敬はある。 でも、縮まない。 


置いていかれる場所は、 最初から、存在していなかったのだと思う。