母に会いに行ってから考えたくないのに、子どもの頃から、嫁ぐ日まで虐待にあっていたことを思い出して辛い気持ちになります。

このプログで何度かお話ししてきたように母には殴られ、叱責され、母の思うようにしなければ出ていきなさいと言われたこと思い出してこの世の中から、いなくなりたくなります。
もう、嫁いで子どももいるのに当時の辛い気持ちにひっぱられます。
コロナの影響もあって母と接することもなかったのでずっと忘れていたのに。

本当は子どもの頃、仕事で行き詰まった時話を聞いてほしかった。でもそんなことは許されなかった。転職をしたいというとそれなら出ていきなさい。でも、妹は転職繰り返していました。

嫁ぐ時も嫁入り道具も全て1人で選び買いに行きました。わずかばかりの貯金とカードで買いました。そして入籍後、結納金と日々の生活費から、細々と返していきました。

妹は結婚資金は母が出しました。私は1円も出してもらってません。なので着たいドレスよりも予算で収まるドレスを着ました。私は母は結婚資金を出してくれないのをわかっていたので少人数でやりたかったのですが、相手方に合わせて普通の式になりました。なので結婚式のお祝いを全て母に渡し、それで帳消しになりました。なんで私だけ?妹となんでちがうの?

私はヤングケアラーで妹の世話と家事を引き受け、遊ぶこともできなかったのに。自由に生きてきた妹にはなんで?

何年たっても納得できません。
私が病気で入院すると、なんで入院なんてするの?そんな必要ないでしょ?と怒られました。
医師が必要だから、入院したわけなんです。

結局一年近く苦しみ大学病院で手術を受けました。その時は、主治医が母の知り合いだったので、お見舞いにはきましたが、お見舞いのお金は帰りの母のタクシー代。当時の私は快気祝いという返すことも知らなかったし、お見舞いも母が使っていたので私自身のお金はありませんので、快気祝いはしませんでした。それで友達に怒られ、友達もなくしました。

私はもともとが優しい性格で、自己肯定感が低いので、それは幼い頃から、あんたはダメだ。里子に出してやると散々言われてきたので自己肯定感が低いのは当たり前です。

それでも母に愛されたく、母が定年を迎えた時は沖縄に連れていきました。でも子どもたちの世話をするわけでもなく、おむつのままの娘を横に自分だけコーヒーを飲む母。
沖縄から帰ってきた車で、抑えられなくなって
喧嘩です。
今思えば、別に旅行に連れて行くことなんてなかったんです。しかも旅費は私もち。
一歳半の子供を連れての旅行は大変でした。

私に今できることは母と距離を取ること。関わらないことです。
それしか私の生きる道はありません。

私が仕事をするようになってから、早く帰ってきた人つまり私ですね。掃除して洗濯して、夕食を作る生活でした。でも母はただいまをいうこともなく、お風呂に入ってねてしまってました。どう考えてもおかしいですよね。
ただいまをいうのは普通。
一緒に食事を取るのも普通のかとです。

普通じゃなかった私の家庭。
辛すぎる。