4月に入りました。


5日ラゾーナ川崎 東京女子→DDT

6日北沢タウンホール ガンバレ☆プロレス

7日新宿FACE 東京愚連隊興行

8日新木場1stRING ヤス・ウラノ自主興行


と4日で5連戦。

なかなか消耗しました。

でもそれ以上に糧となった部分が多かった。

ガンプロのタイガースさん、愚連隊興行で菊タローさん&くいしんぼうさん、部屋バンでのニラさん。

3日連続でなかなかシビレました。

でもきっと成長した気がします、自分!

そして藤波さんがライジングで入場したリングに立っていれたという事実。

プロレスって素晴らしい!


今週末は春日部→大阪と連戦。

再来週は熊本→北九州→鹿児島と3連戦。

その翌週は後楽園ホールからの仙台→青森→山形3連戦。

帰って来たら新宿FACE、翌朝リントラ出発で札幌…

2014年になったばかりだと思いきや、もう4月。

きっと気が付けば5月、6月でビアガーデンで両国。

これは毎年の事なのですが、年々そのスピードは加速している気がします。

会社が大きくなっている実感と同時に責任や不安、焦燥といったものも同様に大きくなっています。

振り落とされない様に必死にしがみ付く毎日。

信じられない早さで毎日が通り過ぎていきます。

そんな中ここ数日ずっとモヤモヤしていた事を綴りたいと思います。

ようやく心がスッキリしました。

させてくれました、プロレスが。


20日後楽園ホール

21日ニコ生

22日ニコ生

23日

24日DDT仙台大会

25日東京女子渋谷イベント

26日ニコ生

27日ゆずポン最初で最後の路上プロレスin花やしき

28日USA新木場大会

29日ニコ生

30日DDT高岡大会

31日DDT大阪大会


昨年3月のスケジュールです。

なかなかとち狂ってます(笑)

当時はニコ生を始めてすぐだったので、放送にはほぼ毎回立ち会ってました。


20日の後楽園大会の朝。

いつもの様にトラックでホールに到着しローソンへ。

水とレッドブルと何らかのタンパク質っぽいものを買いました。

これはもうルーチンみたいなもので、何が食べたいとか一切考えず毎回同じものを買っています。

ところがその日は北海道フェアみたいのがやっていて、あんパンが一つだけ残っていました。

何故かは全く分かりませんが僕はその一つを手に取りレジに向かいました。

普段絶対食べないのに。

結局そのあんパンは会場で食べず、家に帰ってガラガラから出しテーブルにポツンと置かれました。


翌21日、母と妹が父親のお見舞いに行きました。

一時は結構熱が上がったもののその日は体調も安定し、しばらく三人で話した後二人は銀座に向かいました。

銀座の木村屋のあんパンが父の大好物だったからです。

しかしあんパンを買い終えた丁度その頃、体調が急変した父は静かに息を引き取りました。

10日に誕生日を迎え、11日に会いに行ったばかりの父は77歳でした。


僕は事務所で母から電話を受け、その話を聞きました。

でもあまり動揺しなかった。

昨年末の時点でもう2ヶ月もつかどうかと言われていましたし、2月を乗り越えたものの3月に入った時点でもう1週間くらいだと。

今のうちに会っておいて下さいと言われていたからです。

覚悟は出来ていました。

直ぐに父に会いに行くと、本当に穏やかな顔をしていました。

よく使われる表現ですが、本当に寝ている様だった。

父の遺志で火葬を先に行い身内だけで葬式を執り行う事に。

父はその日のうちに安置所に運ばれました。


自分は次の日からも普通に出社しました。

高木さんも松井さんも休んでいいと何度も言ってくれた。

でも父はもう家にいないし、動いてないと不安でした。

どこかで受け入れていない自分がいたのかもしれません。

そんな自分にとって正に息をつく暇もないこのスケジュールは好都合でした。

色々と考え込む暇も無く、本当に無心で仕事に打ち込めました。

結局葬儀が行われた31日の大阪大会一日だけお休みを頂き、あとは一切の滞り無く業務を全う出来た。

これが一日ずれてホールの日だったら…

親というのは凄いもので、父は最後の最後まで息子思いでした。




タバコもお酒もやり放題だった父は三回脳溢血で倒れました。

かなり早い段階で周りが異変に気付き病院に連れて行った一回目は特に問題ありませんでした。

二度目で右半身が不自由になり、三度目はもう助からないと言われた。

でも奇跡的に助かり、そこからの約20年は車椅子で施設で過ごす事になりました。

若い頃から本当に好き勝手やってきた父が、人生最後の20年は自由を奪われるという何とも皮肉な運命です。


かなりやんちゃな人で、肩が触れた触れないで喧嘩するのは日常茶飯事。

裸の札束をズボンの後ろポケットに突っ込んで遊びに行ったり、家に何日も帰って来なかったり。

小さい頃家にお手伝いさんがいて、家事やりつつ家族と一緒にご飯を食べてました。

最初は近所の主婦を雇ってるという話でしたが、大人になって知った事実は彼女は愛人だったとか。

小さい僕を遊びに連れて行くと言い、お金だけ渡して自分は麻雀やってたり。

酔っ払って家に帰って来ては大暴れして家族が夜中にホテルに逃げたり、警察呼んだり(笑)

もう返せないくらいお金借りるだけ借りて倒れるという、最後まではちゃめちゃで。

本当に怖くてめちゃくちゃな父でしたが、幼い頃に母を亡くしている自分にはたった一人の本当の親。

42歳という年齢で初めて出来た子供が自分でしたから、そんな中でも可愛がってくれたと思います。

反抗期みたいので口聞かなくなったり、やたら逆らった時期もありました。

かけっこで僕が勝ったり、殴られてもあまり痛くなくなった時、少し寂しくなった覚えがあります。


と父の話は良いものも悪いものも書き出したらキリが無いのですが、こんな風に色々思い出して考えるようになったのも富山から一人東京に向かう朝イチの電車の中でした。

父の死からしばらく時間が経ち、ようやく事実を受け入れようとしていたのだと思います。


あれから一年。

もう一年なのかまだ一年なのか。

とりあえず一年経つまではあまり公にはしないでおこうと思っていました。

理由はよく分かりませんが。

周りに気を使わせるのも悪いと思った様な気もします。

ついたと思った気持ちの整理がついていなかったのかもしれません。

一年と数週間経っていますが、この数週間はまだ迷いがあったのかな?


偶然にもその状況で今成夢人が百田親子と試合をするという信じられない現実が起こりました。

今成さんはまぁ事務所の下積みからずっと一緒ですから、ある意味自分にとって特別な存在であることに間違いはありません。

彼は百田親子と自分との境遇の違いを力説し、やたらと父親の話をするようになりました。

ラブホテルで働いているとか、最近のデリヘル嬢は可愛い子が多いと言っていたとかいった話を恥ずかしげも無くむしろ活き活きと。

不思議でした。

それと同時に羨ましかった。


試合当日百田選手と力選手はずっと一緒にいました。

二人でアップをし二人でスパーリングをし。

それはまるでプロレスラーとしての帝王学をその場でも教えているかのようでした。

そんな二人の結束力は凄まじく、高木さんと今成さんのタッグは負けました。

でも試合中の今成さんは事務所で高木さんに怒鳴られている時とは別人の様で。

何故か僕には高木さんと今成さんが親子の様に見えました。

まるで二組の親子がリングで対峙しているかの様に錯覚したのです。

羨ましかった。


この一年ずっと考えていました。

父は僕を早稲田に入れたかった。

でも栄養士を目指した時点でその父の夢の一つは消えて無くなりました。

子供が夢を叶える為に選んだ道は、父の夢を壊す事だった。

姉や妹と違い、孫を抱かせてあげる事も出来なかった。

紆余曲折の末ようやく夢を叶えたものの、レフェリーしている姿を生で見せる事も出来なかった。


今でも天国から見ていてくれる…

そんな自分勝手な考えにはなれません。

きっともっと親孝行するべきだったろうし、寂しい思いも沢山させてしまった。

親孝行したい時に親はなし 石に布団は着せられず

とよく言いますが、正にその通りで。

棺に入った父の優しい顔と傍らに並んだ三つのあんパン、今でも忘れられません。


でも…

でもここ数日今成さんや百田さん親子を見て、何かが変わりそうな気がしていました。

そして昨日のウラノさん興行。

最後にウラノさんは言いました。

「プロレスしてなかったら何をしていた?」

「僕にはプロレスがあって本当に幸せです。プロレスがあるから仲間がいて皆さんに観てもらえる」

多分こんな感じだった気がします。


プロレスしてなかったらきっと腐りきってつまらない人生で終えていたと思います。

何もかも失ったあの時、好きでもない仕事についてただただ生きようと考えていました。

それを止めてくれたのはプロレスでした。DDTでした。

もう一度夢を見ようとか、頑張って生きようとか思ったのはプロレスを観たからです。


そして今、僕の周りにいるのはプロレスで知り合った人ばかり。

プロレスで出来た仲間ばかりです。

僕は自分の人生で一番輝いているのは今だと胸を張って言えます。

それはデビューした日から毎日そうです。

毎日一番を更新し続けている。

本当にプロレスのお陰です。

プロレスがあって本当に幸せです。


プロレスがあるから知り合えたウラノさんの一言に助けられました。

心のモヤモヤがスーっと晴れていくのが分かりました。

30歳でプロレス界に入ると言い出した僕に父は当然反対しました。

なかなかデビュー出来なかったし、生活も安定しなかった。

父はいつも心配していました。

僕はそんな父にいつも言っていた。

「大丈夫だから、大丈夫だから」

「高木さんについていけば大丈夫だから」

何の根拠も無かったけど、今の自分がそれを証明しています。


だからこれからもプロレスを、DDTを頑張っていくだけです。

そして一日一日を大事にしようと思います。

その積み重ねが僕の人生、幸せの形です。

もし僕が死んで父に会う時が来たら、「ほらね、間違ってなかったでしょ?」と言える様に。

それが今出来る唯一の親孝行だと気が付いたので…


とまぁ長々書きましたけど何が言いたいかって、結構すぐ両国が来ちゃうんじゃないかって気付いたのにチケット1枚しか売ってなくて焦ってきたって事です。

きそぺろ☆