長野智子さんの記事、ずいぶん前にも挙げた気がするな・・・
リンクが切れると読めなくなるので全コピで。

私もこのお母さんのようにピンコロで死にたいし、娘に惜しまれながら旅立ちたい。

もしかしたらそのために生きていると言っても過言ではないかも。





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「絶対に延命治療はしないで」92歳の母の強い意志に、娘はどう向き合ったのか
12/16(木) 20:16 Yahoo!ニュース 181
 父が亡くなった時、私は7歳で、悲しみというよりは、母を失う恐怖を強く感じたことを覚えている。この人を失ったら私は生きていけないのではないかという子供ながらの危機感だったのか。それ以来、母の長寿を毎日祈り続けてきた。

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 おかげさまでその後、母と私はまるで姉妹のようにランチをしたり、旅行をしたりと何気ない日常を共にし、思春期にはそれなりの喧嘩をすることもできた。それがどれだけ有り難いことか。老いていく姿を見せてくれることさえ長生き故のことなので、私にとっては感謝しかなかった。

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「ピンコロで逝きたい」と強く願っていた母

著者の長野智子氏と母 ©長野 智子
 11月初旬、2週間前に受けた定期検査で健康と診断された母が、急にベッドから起きなくなった。前の週には外食で天ぷらそばを食べていたのだからかなりの急変だ。悪化した腰痛がきっかけとなったのか。92歳の母は驚くほどの早さで弱っていった。

 かねてから「ピンコロで逝きたい」と強く願っていた母だが、前夜にご馳走を食べて翌朝亡くなっていたなどという例はほんの一握りであろう。特に健康的に悪いところもない状態のまま、食べられなくなり、飲めなくなり、枯れ木のように生きる機能を閉じていく「老衰」でもそれなりに苦しい時間がある。

 母が突然寝たきりになり、食べることも拒否し始めた当初、私が一番戸惑ったのはかかりつけ医も含めて近隣の医者がすべて往診不可能なことだった。緊急事態宣言も解除されていた時期だったので、医院の方針としてそもそも往診はしないという判断である。現状の健康状態を医学的に診断してもらって対策を考えたいのに医者にリーチできない。寝たきりの母を病院に連れて行くには担架で運ぶことしか手段がないので、これは救急車を呼ぶしかないかと頭をよぎったが、「私に何かあったとき、絶対に延命治療はしないで」という母の強い意志を思い出した。

 病院は基本的に治療をする場所だから、入院した時点で何かしらの延命処置が施される。自然に死にゆこうとする身体に点滴や胃瘻をすることで命を延ばすことを母は元気な頃から望んでいなかった。「元の若い身体に戻れるならともかく、ここまで生きて何も思い残すことはない。倒れたら放っておいて」が口グセだった。とはいえ、このまま放っておくこともできない。

困り果てた私を救ってくれたのは…

 困り果てた私を救ってくれたのが、少し前に介護認定手続きをした「地域包括支援センター」だった。実は母が倒れる1ヶ月前、腰痛を訴えたこともあって、この先何かあったときのためにと介護認定を受けていたのだ。担当の人が親切だったのを思い出し、電話で事情を話すとすぐに地域の「往診専門ドクター」を紹介してくれた。コロナ禍で奮闘する往診専門ドクターの様子をニュース番組で観てはいたが、いざ自分の身内の問題となると、なかなか発想が及ばなかったのでとても助かる。もしご高齢の親御さんをもつ方がいたら、不安を感じた際に早めに介護認定をとっておくといざという時に助けになると思う。

 ようやく調整のついた往診ドクターによって、母の状態が「老衰」による最終期との診断を受けた。延命治療をしますかと尋ねる医師に、このまま在宅で看取りたいという意思を伝えると、定期的に往診をするというかたちで担当医がついてくれた。

 その後ドクターから地域包括支援センターに、診断報告と看取りに関する家族の意思が伝えられ、それを受けて包括支援センターがケアマネージャーを選定。ケアマネを通じて翌週からヘルパーさんが家に派遣されるように調整が進んで在宅介護の環境が整った。基本的には私によるワンオペ介護だが、定期的に支えてくれるドクターとヘルパーさんが神に見えるほどありがたかった。

「死にゆく者」に向き合うおだやかな時間

 思い起こせば、私がキャスターとして担当したニュース番組「ザ・スクープ」(テレ朝)の初回、2000年4月1日のテーマが「介護保険制度がスタート」だった。あれから21年が経ち、地域の連携システムや介護のプロ育成など、制度がかなり成熟したことを図らずも実体験することになった。財政や人材不足などまだまだ課題の多い介護保険制度だが、高齢化社会にあって、政府には縮小することなく維持する仕組みをなんとか構築して欲しい。

 在宅介護初心者の私による拙い介護で母にとっては災難だったかもしれないが、私にはゆっくりと母の死を受け入れていくかけがえのない時間となった。母の最期に寄り添っていると、天寿を全うするということは、周りにいる人間に心の準備時間を十分に与え、別れの悲しみを穏やかにしてくれる施しなのだと感じる。だから自分を大切に思う人たちのために人間は命を粗末にしてはいけないのだと。

 一日中「死にゆく者」に向き合うことで、なんということのない日常の風景をとても美しいと思うようにもなった。真っ青な空や、夕暮れに散歩をする人たちのシルエット、街中の混雑さえ「生」ということはこれほどまでに美しいことなのだと。

 そろそろ母との別れの瞬間が近づいてきたようだ。徐々に弱くなる母の呼吸を聞きながら、あれほどまでに母を失うことを恐れて生きてきた私はとても穏やかである。長生きしてくれてありがとう。晩年、母は老いた自分を天国の父がわからないのではないかと本気で心配していた。どうか天国では、父が母だとわかるように若くて美しい姿で再会できますように。それだけを母の枕元で祈っている。

【追記】ここまで母の枕元で書いた数時間後、母は旅立った。92歳、在宅での大往生だった。早世した父のように、世の中には早すぎる別れや理不尽な別れも多くある中で、母については恵まれた看取りだったと思う。それでも水を飲むことができず、喉が乾いているであろう母に、唇をただ不器用に濡らすことしかできず、もし病院だったら、もし介護のベテランだったら、もっと心地良く母を送ることができたのではという悔いで未だに夜中に眠れなくなる。どんな形であれ大切な存在との別れは人間にとって本当に難儀だ。それでも旅立つ者の想いは残された者の幸せにあると信じて楽しく生きていくことが供養というものなのだろう。

長野 智子