世界中で大勢の人々が様々な理由でクリスマスを祝います。
友人や家族と一緒に楽しく過ごす人もいれば、神について考えたり、困窮している人たちを助ける慈善活動を行なったりする人もいます。
それ自体は確かに価値のあることです。
しかしこの祝祭には、そうしたことに暗い影を落とす良くない面があります。


第1に、クリスマスは「イエスの誕生日」だと信じて祝っている人が大半であるが、歴史家たちは一般に「イエスの誕生日」は特定できないという意見の一致を見ています。

「クリスチャンの質問集」には「初期のキリスト教徒は、あらゆる異教の慣行との関係を絶つ」ことを望んでいたので「イエスの誕生した日を特別視しようとはしなかった」らしい。

興味深いことに聖書にもイエスが自分自身や他のだれかの誕生日を祝ったことをうかがわせるものは何もないのです。
イエスは「誕生日」ではなく自分の「死」を記念するよう命じました。


第2に、多くの学者たちは異口同音に,クリスマスに見られる風習のほとんどは,キリスト教ではない異教の習慣に由来する,としています。
サンタクロースや,ヤドリギ,クリスマスツリー,プレゼントの交換,キャンドル,ユール・ログ(大きな薪),リース,クリスマスキャロルなどがそれです。
そうした風習の一部に関して「カトリック教会の外観」という本には、こう述べられています。

「わたしたちのうち,クリスマスプレゼントを贈ったり贈られたりし,自宅や教会に緑のリースを飾る時,これは異教の習慣かもしれない,と思う人がどれほどいるだろうか」―「カトリック教会の外観」

それでも、それらの習慣は悪いものではないので「してもいいのではないか」と思う人もいることでしょう。

答えを得るために、次の第3の点について考えてみてください。
神は「清い崇拝に異教の習慣を混ぜること」を是認されません。
神の崇拝者であった古代イスラエルの人々が正しい道からそれた時、神は預言者アモスを通して、
「わたしはあなた方の祭りを憎み,これを退けた。……あなたの歌の騒々しさをわたしのもとからのけよ」
と告げた。

神がそのような厳しい言い方をしたのはなぜだろうか。
古代イスラエルの北王国の人々はどんなことをしていたのだろうか。


初代の王ヤラベアムは、ダンとベテルの両都市に金の子牛を置いて、民がそれらの像を崇拝するようにさせました。
エルサレムの神殿で正しく神を崇拝する代わりにそうするよう、仕向けたのです。
そして、種々の祭りを制定し、祭司たちを任命して民が祭りを祝えるようにしました。

それらイスラエル人が行なっていた事柄には,もっともらしい理由がありました。
そうした事柄すべてを、神を崇拝し喜ばせるためということで行なっていたのです。
しかし,神がアモスや他の預言者を通して告げた厳しい言葉はそれらの慣行に対する神の気持ちをはっきり示しています。

以上のことを考えてクリスマスを祝わないことにした人が大勢いると言います。
それらの人は、年間を通じていつでも自分の望む時に、友人や家族と一緒に時を過ごしたり、困窮している人たちを助けたりして、喜びと満足を味わっているのです。



「クリスマスの時期には,その時期特有の喧騒に巻き込まれがちです。しなければならないことが山ほどあるので忙しくて、家族や友人たちと過ごす時間を十分に取れなくなるかもしれません。実際にストレスを感じるので、味わえるはずの喜びも味わえない場合があります」
―[米国]オクラホマ州の元知事,ブラッド・ヘンリー



クリスマス・シーズンが近づくと、歌や映画やテレビ番組などによって、楽しく興奮に満ちた祝祭ムードが高まり、クリスマス精神を示すよう促されます。
その精神のうち、あなたは以下のどの面が最も重要だと思いますか。



イエス・キリストを思い起こす

与えることの喜びを味わう

困窮している人を助ける

家族や親族と一緒に過ごす

平和を推し進める



米国オクラホマ州のヘンリー元知事も述べているように、クリスマスを祝う多くの人々はその時期に上記の精神のどの面を発揮するのも容易ではないということに気づいています。
クリスマスの時期は往々にして、慌ただしくストレスの多い、とりわけ商業主義の色濃いものとなるからです。

では、「クリスマス精神」―もしくは少なくともその精神と考えられているもの―を培うのは無理なことなのでしょうか。

確かに、わたしたちすべてに、イエス・キリストを思い起こすこと、惜しみなく与えること、困窮している人を助けること、家族や親族と一緒に過ごすことを勧めています。
どうすれば平和を推し進めることができるかも教えています。
ある人たちがクリスマスを祝わない理由ではなく、以下の点を思い起こします。


ある人々は、なぜクリスマスを祝うべきだと考えているのか。

それらの人の望んでいる事柄をクリスマスの時に実行するのが難しいのはなぜか。

幾百万という人がクリスマスよりも良いものを見いだすのに、どんな教えが助けになったか。


「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」

ある人々はそのためにクリスマスを祝う。

ある人々は,イエス・キリストこそ「この時期の主役」であるとし、その誕生を記念するためにクリスマスを祝います。


それが容易でないのはなぜか。
クリスマスソングや様々な風習は、キリストとはほとんど関係がありません。
クリスマスを祝う大勢の人々はイエスに信仰を抱いておらず、イエスを実在の人物と信じていない人さえいます。
商業界では、イエスを思い起こす時ではなく、商品を宣伝するための祭日となっています。


聖書のどんな教えが助けになるか。

「人の子は自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た」

イエスが冒頭で引用した言葉を語ったのは、明らかに自分の誕生日ではないからです。


それは、死ぬ前の夜のことでした。
その晩イエスは、自分の死を記念するための簡素な式を制定したのです。
自分の誕生ではなく死を記念するよう弟子たちに求めたのは、イエスが贖いの犠牲となることにより、従順な人に永遠の命を得る機会が与えられるからです。
聖書によれば「罪の報いは死ですが、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」だと記されています。
ですから、毎年、イエスの死んだ日に、その追随者たちは、無力な幼児ではなく「世の救い主」となったイエスを思い起こすのです。

「キリストは、あなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残された」

イエスを敬い、思い起こすためには、完全で聡明な人間であったイエスの手本を研究すべきです。
その同情心や辛抱強さ、また正しいことを行なう勇気についても黙想し、そして、生活の中で機会あるごとにイエスに倣うように生きなければ。

「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」

イエスを思い起こす時には、現在のイエスについて考えてみれば良い。
イエスは、天の王として支配しています。

「立場の低い者たちを必ず義をもって裁き、地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える」
と預言していました。
そのような魅力的な特質は、生まれたばかりの赤子のものではなく、力強い支配者のものなのです。