幸福になるためには何が必要だろうか。成功や幸運?また立派な職業?偉大なる知識?卓越した技術?いずれも否である。人間が幸福になるための隠された奥義をお教えしよう。それは、自分のことを誰よりも劣り、他人の全てが自分よりも優れている、という完全な自己否定の境地である。ヒルティは間違いを犯した。それは幸福になる条件に仕事を加えたことだ。仕事は愛の次に大切なものであるが完全な幸福な状態になるための必須の条件ではない。そうでなければ老齢によって仕事を続けることが出来なくなった人が幸福になることが不可能になってしまうからだ。

 また、幸福になるための大切な条件を、もう一つ、お教えしよう。それは試練を喜ぶことである。恐らく、これが出来るようになることが人生の中で最も難しい。苦しみ、不幸、悲しみは人間が成長する上で欠かせないものであり、それは常識を越えるほど与えられるということは神からの寵愛を意味する。

 人生の目的とは何であろうか。それは神の掟を忠実に守ることである。敵を愛し、右の頬を打たれたなら左の頬を差し出し、下着が取られたのなら上着を拒わないことである。キリストが磔刑に処された時に、まず思われたことは何であっただろうか、それは自分を磔にする者の罪の許しであった。これこそ道徳の極みであり、キリストの持っていた道徳に自分を近づけることが、人生の目的であり、試練が存在する理由なのである。

 完全な幸福の状態とは神との意志との一致であり、神が望むものであれば、なんでも受け入れるという境地にある。神の寵愛を受けた者は苦しみを受けるが、神の強烈な保護の中にもおり、生活する上での心配事などからも解放される。上手くいかない時、悪い知らせを受けた時に楽しみを見出す時、人生は幸福になり始めたのである。三浦綾子は自分が癌になった時、「こんなにも神は自分を贔屓にし愛された」と述懐したらしい。

 しかし、これらのことは人生を通して徐々に学ぶことである。そのための読書は、あくまで補助器具に過ぎず、こればかりは自分で経験する他にない。考えても見て欲しい。人生の中に苦しみがあるのは当然のことだ。誰も苦しみから逃れることが出来た者などいない。だから、苦しみを、ただ嘆くばかりのものにするか、自分を鍛える修練器具だと見做すかによって人生は百八十度変わるのだ。

 自分を鍛えるものであった場合、それを与えた神に感謝することは当然のことであり、自分が成長することによって、徐々に真理が分かり始める。これだけは避けなければいけないことは、神が早めに試練を打ち切り、その人が完全に成長することを待つことなく、幸福を与えてしまうことである。その場合、苦しみは少ないが極めて器の小さい人物になってしまう。それでは、百熱の試練によって苦しむ人を激励し、また慰めることも出来ない。

 人がならなければならないものとは「世の光」「地の塩」である。その人と交わる人に祝福を授け、その人を中心に愛が広がっていくのである。これは病で床に臥せっている者でも出来ることであり、いや、むしろ、そのような人にこそ、この仕事は相応しいのかもしれない。

 神から与えられるものは、全て、喜んで受け取り、幸、不幸を乗り越え、神の掟を深く学んだ者に与えられるものは、この世における冠の中で最高の価値を持つ月桂樹の冠である。それは幸福ではないかもしれないが、どんな辛い環境の中でも、その人の中に宿る神への愛が光り輝き、全てを耐える力を与えるのである。そのような人にとって試練は、試練ではなくなって、無限に向上する精神の高ぶりへと変わる。試練が、その役目を終えたのである。

 

 見よ、幸福はあるのだ。

 それを正しいところに見出しさえすれば。

 しかも、それは誰でも見つけることが出来るもの

 であるばかりか

 どんな人をも拒みはしない。

 この幸福という冠は、あなたの苦しみによって

 勝ち得たものであり

 どんな努力も才能ですらも必要ないものなのだ。

 苦しめる魂よ、今しばらく忍耐したまえ。

 幸福という灯が、その心を照らす日まで!

 

 最後にいつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。いまだ僕自身は暗中模索の中におり、自分で見つけたものが確かなものなのか分からずにいます。しかし、僕は確かに何かを掴んだのかもしれません。ここ数日は全くの絶望の中におり、突然、光が差し込んできました。試練を完全に受け入れた時、試練に対する見方が変わったのです。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、このような幸福は決して偉大な者だけが勝ち取るものではありません。ほんのささやかな庶民にこそ開かれた道なのです。ありふれた何でもないような、ささやかな者達、それが神が最も愛する人達なのです。それでは、また、お会いしましょう、お元気で。