大体の場合において、神の都合と私たちの都合は合わないものである。それというのも、神の都合というものは、悲しみや苦しみを通して、自分の無力を悟りきり、完全に神の御心に心を委ねることにあるからだ。色んな問題に対して、自分の力でもって解決したいと思うのが人情であって、自分の力では、もはや、どうすることもできないという苦境は、人間は味わいたくないのである。だから、試練の際に、この苦しみから救ってください、という祈りは答えられないのが普通である。それよりも、この試練を耐え抜く力を求めることの方が神の御心に近いだろう。この祈りに近いものをマルクス・アウレーリウスも提唱しており、ストア(克服)派の試練に対する考え方(主にセネカによるもの)は、その試練が乗り越えられるものである限り、有益なものだと言えるだろう。

 しかし、この世の試練には、どうにも耐えることもできない(当座は、そうである。後から振り返ると逃れる道が備えてあることを悟ることも多い)ものも確かに存在する。そのような試練が存在する理由は、病気や怪我、深刻なまでの後遺症や薬の副作用によって、完全に人生に対して絶望してしまっている魂に、再び、生きる力を取り戻し、その試練があったからこそ、幸福になる資格を獲得したのだ、という、強制労働所に連行されながらも、「それでも人生にイエスと言う」と言ったヴィクトール・E・フランクルのような、どんな環境におかれても、自分の生を肯定し、試練に悩む魂を励ますために、そのような不幸があるのである。

 あのキリストでさえも、最大の苦しみであった十字架上の死のような経験をしていなければ、私たちの救い主であり、助け手であることは出来なかったであろう。だから、本当に敬虔なキリスト者の人生は本当に悲惨なものであり、将来、その人が励ましてやらなければならない無数の人々よりも、多くの苦しみと試練とを経験しなければならないのである。

 それは十字架の道と呼ばれるものであるのだが、しかし、それにもかかわらず、神の助けを確信しているのなら、この道は、それほど悪くないものなのである。苦しみが極度のものになるのは、特に選ばれた人たちのみであり、神に信頼する道というものは、あらゆる人生の中で最も簡単なものなのである。キリストは私の荷は軽いと言っている。この十字架の道をトマス・ア・ケンピスは、その著書である「キリストにならいて」で主張しているが、これは万人にとっても指南書であるかは疑問である。彼の主張によると、この人生は、あまりにも辛いものであり、彼は、キリストのために、この世を捨てた者に対して、この助言をしているのである。

 しかし、人生が彼の主張するものであるならば、常人は絶望に駆られ、自ら、死を選びかねない。彼の道に従うためには、天国に対する希望と、地獄に対する恐怖の、その両方を持っていなければならないだろう。しかし、万人にとって、彼のような世捨て人になることが求められているとは考え難い。キリスト者に求められていることは試練によって、鍛えられた倫理的道徳観によって、この世に対して「地の塩」になり、その人を中心にして愛の輪を広げることにあるのである。

 だから、試練に対して、あまりにも辛いだとか、あまりにも耐えがたいというものは、本来なら良いことであり、十字架の聖ヨハネが、その著書である「暗夜」の中で述べられてる受動的な不幸は、退けてはならないのである。彼は、このような苦しみを与えられるものは幸運である、とすら言っている。神の都合と人間の都合が合致する時というのは、試練に対する忍耐の帰依による祈りの時をおいて、それは為されるだろう。(神の願いと人間の願いが合致する時は、他人のためにする祈りの場合にも、それは適用される)

 

 最後にいつも、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。今回は自分も苦境の中におり、身内にも不幸があり、右手、右足に麻痺が残り、言語障害も残った身内から、逆に励まされるという、本当に情けない状況においての執筆でした。

 愛する、愛する、愛する皆様へ、僕は信仰を勧める時、死んだら無だと思う人には信仰を勧めません。また、天国や地獄があると思っていても、それに対する恐怖が無い人にも信仰を勧めません。ただ、唯一、地獄を信じ、そこに落ちるのが怖いという人には、信仰を勧めるかもしれません。ただ、それによって人生が辛いものになることも厭わないのであれば、ですが。こんなことを言うと牧師様に怒られてしまうかもしれませんが。それでは、また、お会いしましょう。お元気で。