私は自分の考察を著す場合、様々な文献を当たって、それを根拠とする場合が多いのではあるが、今回は、独断と偏見によって、必ずしも、この考察を権威づけするような文献はないことを予め断っておく。

 まず始めに言っておきたいことは、友好な人間関係を構築することの利点である。人間関係を良くすることが良いことであるのは、わざわざ述べる必要のないことだろう。しかし、友好関係を築くだけでなく、常に、その人のことを祈る存在がいることは、人生において劇的な影響を与える。特に、病気や障害によって、寝たきりになり、もはや祈ることしか出来ないという人を味方にすることは、様々な祝福を与えられることを意味する。そして、最も効果のあることは、その人を愛する人が、もはや既に故人になっていることである。

 天国からの祈りは、その人に対して強力に働きかけ、驚くような祝福によって、その力を露わにする。我々自身も、そのような故人になることによって、この世で愛した人々の祝福になるような人物になることは、確かに人生の目的の中の一つであろう。人間が隣人を愛することは義務であって、安易な孤独で安逸な幸福を貪るようなことは、才能のある人にとっては愉快なことであろうが、本来なら社会的な存在である人間は孤独であることは最上の状態ではない。

 その人を応援する人が多ければ多いほど、その人は力を得る。スポーツや遊戯で言えば、その人のファンが多ければ多いほど、その人のパフォーマンスが上がることは俗な例であるが確かなことである。恨みや敵意を、自分の所で断ち切り、どんな人であっても、その人を中心として平和を作ることが出来る人は、(その場合、最も厭な存在は、いわゆる悪人ではなく、常に自分を正しいと思っている偽善者であろう)どんな技術や学問を持つ人よりも、人生において最も祝福される人であるだろう。

 だからこそ、人間は自分に益する存在ではなくて、他人に益を為す人になるべきである。情けは人の為ならず、という諺の通りに、他人に益する人が、自分すらも益とすることになるのである。従って、若い頃は多いに愛され、祈ってもらうことで成長し、大人になってからは、他でもない神によって支えられ、溢れんばかりの神からの祝福を他人に注ぐことが出来る人にならねばならない。そうすることで、天国への道も開かれ、あの世から、現世の愛する人たちへ無限の祝福を与える存在となり、また、こうした人と交際し、現世にいる間、そのような人達から見守られることは、幸福なことだと言えるだろう。

 そもそも、祈りというものは自分の無力さを思い知った人でなければ為しえないことである。自分の力でなんとかなるのであれば、わざわざ祈ることなどせずに、さっさと自分の力で片づけてしまうことであろう。しかし、祈りの効果は、神に対する信仰心に繋がれば、この世に対して、大きな力を持つものである。この時、かえって、病気の人や障害を持つ人の方が、現世であっても、健康な人よりも強大な力を持つことになるのである。

 

 最後に、いつもいいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。最近は、様々な体の不調で、論文を書くこともままならない状態が続いておりました。今回の記事も、あまり良い出来ではなく、苦しい中でなんとか絞り出した思想です。

 愛する、愛する、愛する、皆様へ、実は今回は祈りについての記事を書くつもりはありませんでした。他のテーマで書こうとしていて、祈りについても、その記事の中で触れられば良いと思っていましたが、本題のテーマと、この祈りに関するテーマとが、あまり合致しなかったために、祈りの記事だけを書くことになりました。今回の記事は恐らく、書かなかった方が良かったのかもしれませんが、いくら出来が悪くとも、自分の思想の軌跡として残しておくのもブログの利点かなと思ったので、投稿して残しておこうと思いました。それでは皆さん、またお会いしましょう。お元気で。