大雨の翌日と証し
昨晩は本格的に降りましたね。
そんな中、私をいつも煩わせる主人は風邪で微熱があり病院に行ったばかりなのに、止めるのも聞かずに雨の中「滝桜が散る前に」と?夜のライトアップに行って写真を撮って来ました。
週末、東京の客人を接待した時にちょっと失敗して怒らせちゃった…とかポロリと口にしていましたが。
日曜日のイースター礼拝後から今度は突然静かで、音も立てず無視したり。(まぁ、どちらも感じ悪いんですけどね。気を使うから私は頭が痛くなります。)
躁→鬱にチェンジしたのかしら。
心療内科でリーマスという薬を服用しています。今まで「自分は普通で、お前がそう決めつけている!」と言ってたんですが、今月の10日に、私と初めて一緒に診察を受けると言ってくれた時は本当に驚きました。
リーマスは感情の起伏を穏やかにし、躁にも鬱にも再発防止にも効果のある信頼あるお薬のよう…。
主人は二週間分、朝晩きちんと積極的に服用していますが、それと長年の考え方や習慣の癖があるので、どちらかというと私はそちらの方が強くて、躁鬱は気質としてそれを倍増させる力が働くのだと感じています。
結婚してからずーっと不可解な考え方や行動も、ここに来て受診して、信仰を持つという彼が思いもしなかった展開になっている…(朝、とりあえずディボーションを欠かさずするようになったようです。)
7年前に「この苦しみから救われるのにはどうしたらいいんですか?」と言ったら「今はわからなくともイエス・キリストを信じることです。」と言われ受洗して、
次に義母からのニューソート(自己啓発)的な生長の家の思想やオカルトから離れ、病を癒してと…牧師の仰るように主人はイエス様にもっと触れて貰う必要があるんですよね。きっと。
本人もそう願っています。
一昨日書いた記事のように、何が大切か、厳しいことを言ってくれる人はどんな思いから言っているのか、誰を信じるのか(イエス様)、平安はどこにあるのか…祈っています。
また、祈祷会や婦人会でも包み隠さず打ち明けて、兄弟・姉妹方に祈祷の要請をしました。
その翌日だったんです。病院に行くって言ってくれたの。
教会は足らざる罪赦された者達の集まりです。前進する教会、成長する信仰は今年の教会標語なの。
新訳聖書のルカによる福音書は、医者である使徒ルカによる「病を癒す、医者であるイエス」の視点から神の子でありながら、各地を宣教し、病や心の回復について多くのことが記されています。
多くの人は誰も、自分でさえわからない部分を持っているようです。
プレッシャーやバッシングに厳しい海外の
アスリートが良く祈ってから試合して、勝利してまた祈る姿を観ますよね。
どんな時も共に歩んでくださる方を心に迎い入れて、口で告白することは恵みです。
その時、全てが益となっていることに気付かされます。
互いに信じて待つこと…。
高齢で90歳になり、認知が進んで礼拝にこれなくなった兄弟や姉妹がいます。
お姿を見れないことは非常に寂しいことですが…。
実はこの方達こそ、百戦錬磨の信仰の勝利、平和の兵卒!
席に居なくともその姿が見える。
何も言わず不平を呟かず、ただ前を見て祈っていた姿は模範と勇気を与えて下さっています。
まさに、姿が見えなくなったけど生き続けているイエス様のようだと思いませんか?
いつでも、気付いたその時からイエス様に悔い改めて祈り、新しくされてまた歩むことが出来る私…。
思いつくまま記録と、証しを書いてみました。
今週も主のみ腕の中で平安がありますように。amen。
三春滝桜
行くつもりは全然無かったんですが…。
こんなにいいお天気なのに、明日から春の嵐!なんてニュース観たので日中の桜も見ておこう!とそのまま三春まで行くことにしました。
(相変わらず猫みたいに気紛れ)
平日の午前中のせいか、予想してた混雑もなくスイスイ。
それに雨が来るせいか、週末より花曇りで涼しかったです。
色が濃くて可愛いな。
花好きだから行く途中も飽きませんよ。
そんなこんなしているうちに、見えてきました!
土曜日はまだ蕾だったらしいけど、今日来て正解でした。
帰り道に、ハーブファームガーデンにも寄りました。
その記事はまた明日にでも。
桜を満喫した二日間でした。
イースターと夜桜見物
もう少しで日付が変わりますね。
今日のイースター礼拝はとてもとても恵まれました。
礼拝後にCSの子ども達が一人一人に配ってくれました。
嬉しかったのはそれだけじゃない。
毎月求道者向けに「クリスチャン新聞福音版」とライフライン放送伝道の案内を郵送してるんですが、どうしてるかな?と、いつも祈っているお二人の方が本当に久しぶりに礼拝に来られたの。
見つけた時は、思わず互いに手を握りあってしまった!
沢山話したいことがあったようなんですが、高齢者の送迎をしてるのでゴメンなさいです。でも短い間でも近況を知らせ合い祈れました。
口には出さないけれど、彼も彼女も求めています。イエス様を。
今日の礼拝説教は牧師の大好きな箇所だという(私も好き)、エマオの途上でした。
たとえ議論や知識で聖書を説明してもわからない。受洗しても時に神様が見えなくなることもあります。
「イエス様があちらから近づいて来て下さる時に…」
弟子二人にイエス様が近づいて来て、一緒に歩きながら色々と語るという箇所なんですが。
神様だとわからない時にはイエス様の姿が見えて、目が開かれ神様だとわかった時にはイエス様の姿が見えなくなる。
共に語るうちにイエス様によって心が燃やされ、刻みつけられたその言葉とお姿は、今は見えないけれど見えた時よりも鮮烈だというメッセージでしたが…。
常々感じるんですがキリスト教ってこんな逆説風なんですね、神様の目を通すと。
世とまるで違うんだな。
かつて神様自らが、自己中で罪深き私に近づいて来て下さいました。
心で信じて、口で告白(証し、行動)すること。
その後、イエス様(神様)が私と共に人生を一緒に歩んでくださるようになりました。
悲しみがあっても慰められ、不安や怒りがあっても最終的に委ね、平安に戻れます。
どんな時もどんな恥ずかしい事も話せて、智慧を与えて下さる神様は私を決して諦めません。
神様の方がね。
ところで、今日は郡山市の市長選もありました。
次女が仕事から夜帰宅してから選挙後に車で近くに夜桜見物に行きましたよ。(^^)
ようやく満開です!
















