9月いっぱいで今の職場を退職するということで、患者さんたちがあれやこれやと餞別をしてくれます(なくていいですからね、この文章読んで「ああ、わたしまだあげてなかった、用意しなくっちゃ」なんて思わないでくださいね (*^^*) )。
夫婦箸をくれたり、本をくれたり、CDをくれたり、花束をくれたり‥「あの~、まだあと2か月あるんですけど‥」みたいな‥、でも精神科医冥利に尽きます(くれぐれも、なにも品物、用意しなくていいですからね (*^-^*) )。
今までお貸ししていた本を、「どうも長い間‥」と返しに来てくださる方も結構おられて、ああ、こんな本あったなぁって、こちらは全く忘れてしまっていて。やっぱり、日本人って律義です。
それぞれに、想い出や気づきや感謝があるのですが、今日はその中の一つ、CDの贈り物にあった歌と詩をご紹介したいと思います。
ああ、これ、中学の国語の教科書に載っていた詩だ。
吉野弘──
そうそう、でも、少し違うような。
そう、あえて、歌にされていない連がありました。
なぜ‥?
でも、たしかに高田渡さんのいい加減な語り口の底にちゃっかりとメッセージを込めるスタイルの歌には、その連はない方が、かえって、もっとしっかりと人々の心にそのスピリッツが届けられそうな気がしました‥そして、その連は省かれているのだけれど、高田さんの声と歌いぶりが言葉なき言葉でしっかりと伝えてくれている‥
実は、患者さんからこのCDを聴かせてもらうまで、高田渡さんって全然知りませんでした。団塊の世代のフォーク界の語り部として、活躍され、いまも根強いファンがいる─このCDをくださった方は、「うちには同じのが3つありますから」といってわたしにそのうちの1セットを渡してくれたのでした。
野暮なことかもしれませんが、吉野弘さんの元の詩にはあって、高田渡さんの歌には抜けている連を下に載せさせていただきます。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。
親切や正しい行為って、無関心を装う大勢の中でただ一人変わらず行っていくって、勇気のいることですよね。恥ずかしく感じることもありますよね。ほんとうはしない人の方が恥じ入るべきかもしれないけれど、そこは多勢に無勢‥日本人って‥(こっちの日本人の性質についてはいただけない方かもしれないですが)
『それでも愛しなさい』というマザー・テレサが壁に掲げていた詩も思い出させました。でも、わたしたちって、弱いんですよね。なかなか、あのとおりにはいかない、もしかしたら、もしかしたら、マザー・テレサもそんな弱さをご自身のうちに見ていたからあの詩をわざわざいつも目に見えるところに掲げていたのかもしれませんね。
かわいそうな娘、
そのきれいな夕焼けのまだ続く電車帰りの時間は、そして、その後の人生はどうなったんだろうなぁ‥
そのきれいな心をずっと持ち続けてほしいなぁ
と祈らずにおれません。
吉野さんがその詩を書かれたのはもうずいぶん昔で、そこに登場する娘さんももうおばさんになっているでしょうけど、いまも、たくさんのそんな純な心をもって葛藤している娘さんや若者さんがおられますから‥
まことに収穫は多いが働き人が少ない
この歌を聴いたのが昨日のことで、今日、本屋で手にした本でもまた吉野弘さんの詩が出てきたのでした。今日の本屋さんは他にも収穫がたくさんありました。今日、ブログの題と説明を変えさせていただいたのは、斎藤一人さんの『大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね』から拝借しています。
吉野弘さんの詩とふたたび出会ったその本の名前は
『ぼくの命は言葉とともにある
─ 9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと』福島智
ただのお涙頂戴ものとはまったく違います。真摯な、あまりにも真摯な、光からも音からも閉ざされた世界の中でなされた現実の苦悩から絞り出された生きることの意味への問いと応答です。
いま見たらAmazonでカテゴリ1位になってました。
そして、吉野弘さんの詩は
『生命(いのち)は』
『夕焼け』の高田渡の歌と吉野さんの詩で発せられた不条理に呼応するかのように、これら、福島さんの本と、先の詩と同じ作者の吉野さんの詩が、一つの答えとして響き、わたしの心を揺さぶりました。
この本と吉野弘さんの2つ目の詩についてはまた稿を改めて
to be continued